宇土入城と名和氏の滅亡、そして明治へとは? わかりやすく解説

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宇土入城と名和氏の滅亡、そして明治へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/27 06:56 UTC 版)

名和氏」の記事における「宇土入城と名和氏の滅亡、そして明治へ」の解説

菊池系宇土氏滅亡後宇土城には菊池氏家臣の城為冬が城代として入城する。しかし永正元年1504年)、肥後守菊池能運急死に伴う混乱で、為冬は宇土城棄て本国帰還した。こうして空城となった宇土城へ入るのが、宇土為光娘婿であった名和顕忠である(宇土名和氏初代)以後対外的には「宇土殿」「伯耆殿」と称された。 顕忠は菊池系宇土氏時代阿蘇氏割譲された郡浦庄回復試みているが、阿蘇氏抵抗排除することができないままに推移し、郡浦支配達成出来るのは天文19年1550年)、宇土名和氏3代行興の時まで待たねばならなかった。 しかし、もともと守富庄木原城にいた名和氏政治的動向漸次北上してくる相良氏対抗するため、宇土郡東南部での活動が主であった中でも最大争点となったのが、益城郡当時八代郡豊福にあった豊福城をめぐる抗争であった。この城をめぐって相良氏と約80年間に合計9回[要出典]も所有権奪い合っている。 名和氏以後、行興の子の行憲が宇土名和氏4代として永禄5年1562年)に家督を継ぐが、行憲は当時わずか7歳であったこのため、行憲の名代地位めぐって宇土氏筆頭家老の内河氏と当時豊福城代だった一門衆名和行直が対立した永禄7年1564年4月、行憲が急死する両者の対立激化し、ついに同年5月8日、行直は挙兵して内河氏を追放し権力を掌握して宇土名和氏5代として家督継承する至った。行直は元亀2年1571年)に死去し家督は子の顕孝が継いだ墓石はかつての菩提寺だった宗福寺境内にあり、宇土市指定文化財となっている。 戦国時代末期天正15年1587年)の豊臣秀吉九州征伐に際して宇土名和氏6代顕孝は秀吉に降伏し所領を安堵される。しかし、同年生じた肥後国人一揆際し加担はしなかったが援軍にも加わらなかったため、秀吉のとがめを危惧した顕孝は自ら大坂まで赴いて釈明すべく、顕孝の弟でもある顕輝を宇土城代とした。その顕輝も翌天正16年1588年4月宇土城へ来た秀吉軍の城明け渡し要求拒否して篭城する敗れ城外逃れる捕縛され殺害された。こうして、宇土城主として名和氏はここに滅びた。 顕孝は一揆加担しなかったこともあり、処罰対象はならず、後に筑前国所領与えられ同地領主となった小早川氏の下に編入された。その後文禄・慶長の役にも出陣し活躍したが、所領小ささ嘆いて筑後国山本郡千光寺蟄居慶長13年1608年)に死去したとされる[要出典]。 顕孝の子長興柳川藩主立花氏客分となり、後に客分から家臣へと転じた長興の子孫は伯耆氏を称したが、後に名和復姓して明治維新迎えた明治11年1878年)、時の当主である名和長恭が名和氏南朝の忠臣であったという由緒から名和神社宮司となり、男爵位を授けられた。

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