宇土入城と名和氏の滅亡、そして明治へ
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「名和氏」の記事における「宇土入城と名和氏の滅亡、そして明治へ」の解説
菊池系宇土氏の滅亡後、宇土城には菊池氏家臣の城為冬が城代として入城する。しかし永正元年(1504年)、肥後守護菊池能運の急死に伴う混乱で、為冬は宇土城を棄て本国へ帰還した。こうして空城となった宇土城へ入るのが、宇土為光の娘婿であった名和顕忠である(宇土名和氏初代)。以後、対外的には「宇土殿」「伯耆殿」と称された。 顕忠は菊池系宇土氏の時代に阿蘇氏へ割譲された郡浦庄の回復を試みているが、阿蘇氏の抵抗を排除することができないままに推移し、郡浦支配が達成出来るのは天文19年(1550年)、宇土名和氏3代行興の時まで待たねばならなかった。 しかし、もともと守富庄木原城にいた名和氏の政治的動向は漸次北上してくる相良氏へ対抗するため、宇土郡東南部での活動が主であった。中でも最大の争点となったのが、益城郡(当時は八代郡)豊福庄にあった豊福城をめぐる抗争であった。この城をめぐって、相良氏と約80年間に合計9回[要出典]も所有権を奪い合っている。 名和氏は以後、行興の子の行憲が宇土名和氏4代として永禄5年(1562年)に家督を継ぐが、行憲は当時わずか7歳であった。このため、行憲の名代の地位をめぐって宇土氏筆頭家老の内河氏と当時豊福城代だった一門衆の名和行直が対立した。永禄7年(1564年)4月、行憲が急死すると両者の対立は激化し、ついに同年5月8日、行直は挙兵して内河氏を追放し権力を掌握して宇土名和氏5代として家督を継承するに至った。行直は元亀2年(1571年)に死去し、家督は子の顕孝が継いだ。墓石はかつての菩提寺だった宗福寺境内にあり、宇土市指定文化財となっている。 戦国時代末期、天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州征伐に際して、宇土名和氏6代顕孝は秀吉に降伏し所領を安堵される。しかし、同年に生じた肥後国人一揆に際し、加担はしなかったが援軍にも加わらなかったため、秀吉のとがめを危惧した顕孝は自ら大坂まで赴いて釈明すべく、顕孝の弟でもある顕輝を宇土城代とした。その顕輝も翌天正16年(1588年)4月、宇土城へ来た秀吉軍の城明け渡し要求を拒否して篭城するが敗れ、城外へ逃れるも捕縛され殺害された。こうして、宇土城主としての名和氏はここに滅びた。 顕孝は一揆に加担しなかったこともあり、処罰の対象にはならず、後に筑前国に所領を与えられ同地の領主となった小早川氏の下に編入された。その後、文禄・慶長の役にも出陣して活躍したが、所領の小ささを嘆いて筑後国山本郡千光寺に蟄居し慶長13年(1608年)に死去したとされる[要出典]。 顕孝の子の長興は柳川藩主立花氏の客分となり、後に客分から家臣へと転じた。長興の子孫は伯耆氏を称したが、後に名和へ復姓して明治維新を迎えた。 明治11年(1878年)、時の当主である名和長恭が名和氏が南朝の忠臣であったという由緒から名和神社の宮司となり、男爵位を授けられた。
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