宇土城主時代
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天正15年(1587年)の九州平定、天正16年(1588年)の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、九州大名の監督権と博多町割り奉行という重要な役割を担うようになり、また、肥後国の南半国宇土、益城、八代の三郡20万石余りが与えられた。 天正17年(1589年)、宇土古城の東の地(現在の熊本県宇土市古城町)に新たな宇土城を築城し、本拠とした。小丘陵の城山の頂上に本丸、西に二の丸・堀と石垣三の丸を配し、それぞれを堀と石垣で囲んだ近世城郭であった。鎌倉時代末期に宇土氏によって築かれた宇土古城とともにみると、鶴が翼を広げているように見えたことから「鶴の城」の異名を持つ。 この宇土城普請に従わなかった天草五人衆とは戦になり(天草国人一揆)、これを加藤清正らとともに平定。天草1万石あまりも所領とした。秀吉は、後の朝鮮出兵を視野に入れて、水軍を統率する行長を肥後に封じたという。なお、行長の天草出兵に関し、一般的には行長自身では一揆を鎮圧できず、清正に援軍を頼んだように思われているが、実際は、行長は清正の渡海を思いとどまらせようと説得したものの、行長の更なる水軍の強化を清正が恐れたため、天草攻略に強引に割り込み、両人で一揆を制圧することになったもの。天草諸島は,天草国人衆のもとで活動する海上勢力の地盤であり、「唐入」を控えて、海上勢力・海上能力の掌握を課題とする豊臣政権にとって、天草統治は非常に重要だった。 この後の天草は人口3万の2/3にあたる2万3千がキリシタンであり、60人あまりの神父、30の教会が存在したという。志岐氏の所領である志岐には宣教師の要請によって画家でもあるイタリア人修道士(イルマン)ジョバンニ・ニコラオが派遣され、ニコラオの指導下で聖像学校が営まれ、油絵、水彩画、銅版画が教えられ聖画・聖像の製作、パイプオルガンや時計などの製作が行われていた。学校は後の文禄3年(1594年)、有馬半島八良尾のセミナリオと合併し、規模を拡大したが、これらイエズス会の活動に行長は援助を与え保護した。 行長の宇土城は水城として優れた機能を持っていたというが、秀吉の意を受け、相良氏統治時代からこの地域の海外貿易の中心地であった八代(徳淵津)にも、麦島城を築城して水利を強化し、重臣の小西行重を城代として配置した。行長は従来の山頂にあった古麓城を廃して、麦島城を球磨川と八代海に面する河口の島に建て、堀から外水を引きれて浮城としたので、直接、船で出入りできた。このほか隈庄城、木山城、矢部城、愛藤寺城を支城とし、隈庄城に弟の小西主殿介、愛籐寺城に結城弥平次ら一族重臣を城代に任じている。また高山右近の旧臣(キリシタン)が多く家臣に取り立てられた。 しかし、残りの肥後北半国を領した清正とは次第に確執を深めることになった(後述)。
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