宇土・八代の陥落
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了俊はこれに怯まず、元中3年/至徳3年(1386年)夏より宇土・河尻両城への攻撃を敢行した。了俊が隈牟田・赤山など諸城を攻めている最中、前頼は球磨から反撃を加えて征西府の危急を救ったので、元中4年/至徳4年(1387年)7月親王(兵部卿親王)はその軍功を賞している。これより数年は両軍ともに動かず、征西府はしばしの小康を迎えたが、その間には阿蘇氏・名和氏との連合を強めつつ、遠く筑後の五條氏に通じて再興の機会を窺っていたのであろう。しかし、今川貞臣が父・了俊の命で専ら南朝方攻略に従事するようになり、元中7年/明徳元年(1390年)9月肥前深堀氏らの援軍を率いて宇土・河尻両城を陥落する。親王は武朝とともに名和顕興を頼って八代に逃れ、高田(熊本県八代市奈良木町宮園)に征西府を移した。ところが、元中8年/明徳2年(1391年)貞臣はこれを追撃して南進し、八代諸城の攻略を開始。顕興はこれを防がんと転戦するが戦況不利にして敵わず、9月に親王はやむなく今川軍との和睦を結んで八代城も陥落に至った。この際、武朝は行方を晦ましている。
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