宇土・八代の陥落とは? わかりやすく解説

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宇土・八代の陥落

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 02:41 UTC 版)

良成親王」の記事における「宇土・八代の陥落」の解説

了俊はこれに怯まず、元中3年/至徳3年1386年)夏より宇土・河尻両城への攻撃敢行した。了俊が隈牟田赤山など諸城攻めている最中、前頼は球磨から反撃加えて征西府危急救ったので、元中4年/至徳4年1387年7月親王兵部卿親王)はその軍功賞している。これより数年両軍ともに動かず征西府はしばし小康迎えたが、その間には阿蘇氏名和氏との連合強めつつ、遠く筑後五條氏に通じて再興機会窺っていたのであろう。しかし、今川貞臣が父・了俊の命で専ら南朝攻略従事するようになり、元中7年/明徳元年1390年9月肥前深堀氏らの援軍率いて宇土・河尻両城陥落する親王は武朝とともに名和顕興頼って八代逃れ高田熊本県八代市奈良木町宮園)に征西府移した。ところが、元中8年/明徳2年1391年)貞臣はこれを追撃して南進し、八代諸城攻略開始。顕興はこれを防がんと転戦するが戦況不利にして敵わず、9月親王やむなく今川軍との和睦結んで八代城陥落至ったこの際、武朝は行方を晦ましている。

※この「宇土・八代の陥落」の解説は、「良成親王」の解説の一部です。
「宇土・八代の陥落」を含む「良成親王」の記事については、「良成親王」の概要を参照ください。

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