中世・宇土古城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 23:21 UTC 版)
宇土古城は、宇土氏によって西岡台と称される独立丘陵に築かれ(このため中世宇土城を指して「西岡台」と通称する)、中央の迫地を挟んで東に主郭となる千畳敷(せんじょうじき)、西に三城(さんのじょう)という連郭式の体をなしている。東の千畳敷の周囲は横堀で囲まれており、北から東にかけての斜面には複数の竪堀が穿たれていた。近年、千畳敷と呼ばれる曲輪跡から多数の掘立柱建築の痕跡と、東側に虎口、城門遺構が発掘されており、一部の遺構については復元表示してある。 1998年(平成10年)、千畳敷の北側に掘削作業途中の横堀跡が検出され、当時の土木作業工程・技術を示す貴重な事例となっている。さらに、城門遺構付近の横堀からは100点を超す石塔の部材が出土しており、同城の廃城(城破り)に伴って念入りな儀式が行われたことを窺わせている。また三城の南西側には、幅約10m、全長約300mの空堀が存在している。 西岡台の正確な築城年代は詳らかでない。一説には永承3年(1048年)、関白藤原頼通下向の際に築かれたという。 南北朝時代の城主、宇土高俊は終始南朝方に呼応し、隣の郡浦荘を押領するなど、宇土半島を中心に活動した。 室町時代後半、宇土忠豊の養子として肥後国守護の菊池氏から宇土為光が入る。その為光は文明16年(1484年)・明応8年(1499年)と守護職押領を企てるが失敗する。文亀元年(1501年)、為光は3度守護職押領を企て、ついに成功し肥後国守護となる。しかし文亀3年(1503年)、亡命していた菊池本家の22代菊池能運の反撃に遭い、西岡台へ籠城するが破れ、殺害された。西岡台には菊池氏家臣の城為冬が入城するが、永正元年(1504年)に能運が急死すると城氏は没落し、空城となった西岡台には為光の娘婿である名和顕忠が入った。 名和氏はその後約80年間にわたり西岡台の城主となるが、天正15年(1587年)に行われた豊臣秀吉の九州征伐に際して名和顕孝は秀吉に降伏するが、同年に起きた肥後国人一揆に際し、中立を保ったことを釈明すべく大坂へ赴いた際、城代となった弟の名和顕輝が秀吉軍の開城勧告を拒否したため討伐されて、名和氏の時代は終わった。
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