中世、宗教改革、ナポレオン時代
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「ヴァイセンブルク・イン・バイエルン」の記事における「中世、宗教改革、ナポレオン時代」の解説
最初の市壁は12世紀から13世紀に建設された(オーバートーア(上の門) 1110年、シュピタール門 1152年)。14世紀に皇帝の免税特権によって市壁は南に向かって拡大した。さらに壁には幅 30 m の堀が設けられた。水が張られた南東部分は現在も遺っている。市壁には何本もの塔があったが、このうち38本が現存している。多くの塔は四角柱の形である。シャイブラインス塔が現存する唯一の円柱形の塔である。また、フュンフエック塔は五角形の塔である。 「市」になったのは12世紀であった。皇帝フリードリヒ1世バルバロッサの息子コンラート(ドイツ語版、英語版)とカスティーリャ王アルフォンソ8世の娘ベレンゲラとの婚約に際して取り決められた1188年の協定に burgus Wicenburch cum omnibus suis pertinenciis(防衛施設を有する都市ヴァイセンブルクとそれに付随するすべて)という記述がある。この街は他の29のシュタウフェン家の所領とともに、新婦に贈られるモルゲンガーベ(ドイツ語版)(結婚の証の贈り物)であった。ただし実際にはこの結婚は成立しなかった。 1241年の帝国徴税台帳にヴァイセンブルクが記載されている (66. Item de Wizenburc XL mr) 。オーバーバイエルンの諸侯とパッペンハイム元帥(ドイツ語版、英語版)との戦争で、1262年にヴァイセンブルクはバイエルン公ルートヴィヒ2世によってほぼ完全に破壊された。復興されたヴァイセンブルクは1296年に再び帝国都市となったが、フランケン地方で最も貧しい帝国都市であった。1322年、ザイフリート・シュヴェッパーマンが率いて行われたミュールドルフの戦い(ドイツ語版、英語版)におそらくヴァイセンブルク市民のグループが参戦していた。ヴァイセンブルクの市教会聖アンドレアス教会は1327年に完成した。皇帝ルートヴィヒ4世は、1338年にこの街にシュタットヴァルト(市の森)を寄贈した。この森は何世紀にもわたってこの街の貴重な財源となった。1377年に市議会法が制定され、これにより市議会から貴族が排され、市民層が議会を構成することとなった。1447年に市民の病院が創設され、カルメル会の病院と競合するようになった。この街は1481年に大きな債務超過に陥り、王は市議会議員全員を投獄し、新たな市議会を設けた。1490年には財政危機を切り抜けたかと思われたため市教会の改築が計画されたが、結局、資金不足のため中止せざるを得なかった。1449年から1450/51年まで、南ドイツ都市戦争のために多くの建設プロジェクトが先延ばしにされた。ヴァイセンブルクは1500年からフランケン帝国クライスに属した。 1530年11月15日、聖アンドレアス教会で、アウクスブルク信仰告白を受け容れ、福音主義に転向することが大多数の賛成で決定された。454人の市民が議決に参加し、圧倒的大多数が福音主義信仰を選択した。7人だけがカトリック信仰を堅持することを選び、その後すぐにこの街から去って行った。これは、ヴィンツハイム(ドイツ語版、英語版)も同様であったが、起こりえたかもしれない事態を考えるとこのような小さな帝国都市にとっては大胆な措置であった。この頃フィリップ・メランヒトンが2度この街を訪れていることが証明されている。この街は1530年のアウクスブルク帝国議会でアウクスブルク信仰告白の受け入れを公式に表明した最初の帝国都市の1つとなった。1588年から1610年までアンスバッハ侯は、ドイツ騎士団、アイヒシュテット司教(ドイツ語版、英語版)、パッペンハイム元帥、帝国都市ヴァイセンブルクの反対にもかかわらず、ヴュルツブルガー・ベルクにあった修道院を砲撃要塞に改築した。市議会は1590年に神学者の審査に基づいてマルガレーテ・ザイボルトを魔女として拷問して処刑し、侍女のアナ・フランクも処刑した。1591年に別の女性が「痛みを伴う尋問」の結果死亡した。 三十年戦争でこの街は、ヴュルツブルク要塞に近かったために何度も占領され、砲撃され、略奪された。最も酷かったのは1647年であった。要塞は1631年にティリー伯に占領され、1634年に焼失した。1688年、三十年戦争終結の40年後にもまだ29棟の空のままの建物があり、17世紀末にやっと新しい建物に建て替えられた。それでもこの街は、和平の成立後、以前の権利をすべて取り返すことができた。ナポレオン戦争ではこの街は何度も占領された。1798年、フランツ・トログラウアーをはじめとするフランケン大強盗団の強盗がヴュルツブルクに拘留された。何人かは処刑され、他のものは刑務所に投獄された。ヴァイセンブルクは1801年から資金難のために市壁を売却した。この街は1802年に帝国自由権を失い、当初はバイエルン選帝侯に、その後1804年からプロイセンに属し、1806年に最終的にバイエルン王国領となった。19世紀にヴァイセンブルクは中世の市壁の範囲を超えて拡大した。 アルザス地方のヴァイセンブルク(現在はフランス領のヴィサンブール)と区別するためこの街の呼称は、ヴァイセンブルク・アム・ザントあるいはヴァイセンブルク・アム・ノルトガウ(18世紀)からヴァイセンブルク・イン・バイエルンに変化した。ヴァイセンブルクはノルトガウ(ドイツ語版、英語版)に面していたが、それに属していたわけではなかった。バンベルクからニュルンベルクを経て南端がヴァイセンブルクに達する砂地(砂はドイツ語で Sand)は、ロート市もロート・アム・ザントとしてその名称に採り入れていた。
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