鹿子木親員とは? わかりやすく解説

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鹿子木親員

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/25 00:39 UTC 版)

 
鹿子木親員
鹿子木親員肖像 個人蔵(熊本市立熊本博物館寄託)
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文18年3月3日1549年3月31日
別名 寂心(法名)
主君 菊池義武大友義鑑
氏族 鹿子木氏
親俊、鎮有
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鹿子木 親員(かのこぎ ちかかず)は、戦国時代武将菊池氏大友氏の家臣。寂心(じゃくしん)の法号で知られ、肥後国隈本城(後の熊本城)の築城者とされる[1][2]

略歴

鹿子木荘の地頭を務めた中原氏の子孫とされる[2]守護・菊池氏に従い、飽田郡託麻郡に勢力を伸ばす[1]永正13年(1516年)に阿蘇山英彦山の衆徒同士の紛争の仲介役にあたる[2]。大友氏から入嗣した菊池義武の時代に家老の地位にあったが[2][1]、義武が実兄・大友義鑑と対立した天文5年(1536年)頃に離反して大友氏と共に義武やこれを支援する相良氏と争った[2][1]

文人として知られ、自詠の和歌が4首伝わっている他[2]三条西実隆から『源氏物語』を購入したことが知られている。また、藤崎八旛宮大慈寺の修造などの寺社興行でも知られ[2]、藤崎八幡宮に残されている後奈良天皇の勅額は天文11年(1542年)に親員が要請したものと伝えられている[2][1]

嫡男・親俊が家督を継いだが、父に先立って没している[1]。そのため、親員の没後にその弟の鎮有が後を継いだ[2]。鎮有は旧主・菊池義武に帰参するが、義武が義鑑の子・大友宗麟に滅ぼされると所領を奪われて没落[2]、隈本城も城親冬に奪われることになった。

脚注

  1. ^ a b c d e f 『朝日日本歴史人物事典』
  2. ^ a b c d e f g h i j 『熊本県大百科事典』

出典

  • 阿蘇品保夫「鹿子木寂心」(『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年) ISBN 978-4-02-340052-8
  • 阿蘇品保夫「鹿子木寂心」(『熊本県大百科事典』(熊本日日新聞、1982年))

関連項目




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