安倍晴明物語一代記 三
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「安倍晴明物語」の記事における「安倍晴明物語一代記 三」の解説
晴明殺さるる事 (承前) 晴明が中国に渡っていた3年間で、道満は晴明の妻梨花と情を交わす関係となっていた。あるとき道満が梨花に「晴明は中国で何か並大抵ではない書典を伝えられたというが」と問うと、梨花は「何かは知らないが、四寸四方の金の箱と五寸四方の栴檀の箱を、石の唐櫃に入れて鍵をかけ、北西の蔵にしまっている」と答えた。道満は梨花に懇願し唐櫃を開いてもらい、中に入った2つ箱を取り出すが、蓋が開かない。そこで蓋に「一」という文字が書いて叩いたところ、「一」は「うつ」と読めるので蓋は開いた。一方の箱には伯道上人から伝えられた『金烏玉蒐集』が、もう一方の箱には吉備公から譲られた『簠簋内伝』が入っていた。道満を両書をすべて書き写し、元のよう石櫃に納めた。 しばらくして、晴明は宮中で開催される五節の夜の宴会で大酒を飲んで帰宅した。酔って横になっているところへ道満が現れ、過日、中国の五台山に詣でて文殊菩薩にお会いする夢を見たと言う。その夢の中で『金烏玉蒐集』と『簠簋内伝』という書を伝えられたが、目を覚ますと、枕元にその2書があったと晴明に報告した。 晴明は酔いに任せて何も考えずに「夢は妄想顚倒の心が見せるもので、夢で大金を手にしても覚めればなにもない。だから『聖人は夢なし』というのだ」とあしらう。道満は、釈尊、堯王、舜王、神武天皇の例を挙げ、夢の効能を主張し、晴明に反論した。しかし晴明は「聖人がまったく夢を見ないというのではない。真理に到達した者は、理に通じており、心を正しく保っているので妄想の夢などみないのだ。おまえのような功名ばかり求める者に、聖人の見るような正夢をみられるわけがない。ましてや文殊菩薩から伝えられた書典を持っているなど、馬鹿なことを言うでない」と一方的に断じた。道満は「では、その書があるかないか、賭をしようではないか」と気色ばむ。晴明は哄笑しつつ「この首を賭けよう」と言ったとたん、道満は懐から書き写した書を取り出して見せ、晴明の首を打ち落とした。 打ち落とされた首は密かに五条河原に埋められ、そこは塚とされた。道満は「これで梨花と晴れて夫婦になれる。本望を遂げた」と喜んだ。晴明の使用人たちは全員打ち倒れて、藁苞、木切れとなって屋敷には誰一人いなくなったが、道満が新しく木切れに加持祈祷を加えて人としたので、元通りとなった。 太唐の城荊山文殊堂炎上付伯道上人来朝并道満法師殺さるる事 (承前) 北宋の太平興国元年(西暦976年)11月、㓝山の文殊堂が原因不明の出火で消失した。伯道はこれはただ事ではないと驚き、日本の晴明の身に大事があったと考えた。雲気を見ると東方に死気がある。泰山府君法を執り行うと、壇上に晴明の姿が影のように映ったことから、何者かに殺されたことがわかった。そこで伯道は晴明の仇をとろうと日本へ渡った。 都へ上った伯道が一条戻橋の上で晴明の屋敷の場所を聞いたところ、弟子の道満と言い争いをして負け、昨年11月に斬首されたという。さらに伯道は、その遺骸を葬った塚はないかと問うたところ、賀茂川(鴨川)の五条川原に埋められたことがわかった。伯道は晴明を葬った塚を掘り返し、朽ち果ててばらばらになった遺骸を1箇所に集め、生活続命(しょうかつぞくめい)の法を行った。これにより晴明は元通りの姿で蘇生した。 伯道は自分の与えた三戒のすべて破った晴明を叱責した後、晴明を伴って道満の屋敷へ行き、晴明を物陰に隠して自分だけ「晴明に会いに来た」と中へ入っていった。応対に出た道満は、晴明が昨年死んだことを告げた。 ところが伯道は、昨日晴明と逢って今日の宿を借りる約束をしたという。道満はこれを笑い飛ばすが、伯道は晴明が生きていることをかたくなに主張し、「晴明が生きていて、ここに帰ってきたらどうする」と凄む。道満は「晴明が生きているならこの首を切るがいい。しかしこの世になければ、おまえの首を切る」と怒りを露わにした。 ここで伯道は隠れていた晴明を呼び入れ、道満は色を失い逃げようとするが、伯道の金縛りにより身動きができなくされた。晴明は道満の首を打ち、帳台へ逃げ込もうとした梨花を引き出し、同じく斬首した。道満と梨花は同じ穴に埋められた。 (この後埋めた場所=道満塚についての記述があるが、文章の内容が矛盾して意味をなさない。「#不適切な増補」参照) 伯道は「一生慎むように」と言い置いて帰国した。晴明は物忌みの後、参内するが、「おまえは幽霊か」と恐れ怪しまれたので、子細を説明すると「いよいよ奇特なこと」と思われた。官位は、元と同じ四位の主計頭、天文道博士に再選任された。 人形(ひとがた)をいのりて命を転じ替たる事 (『平家物語』の異本「剣巻」の宇治の橋姫伝説、およびそれを原典とした謡曲『鉄輪』が元になっている) 五条のあたりに住むある人が、若い女と懇ろになり、元の妻を捨てようとした。元の妻は怒り、嫉み、鬼となって夫と若い女を取り殺そうと思い立つ。女は毎夜、貴布称明神(貴船神社)へ丑の刻参りをし、21日(三七日)目の満願の日、明神は示現し、「鬼になりたければ、髪を乱して揺り下げ、前髪を2つに分けて角を作る。顔には朱をさし、体には丹を塗り、金輪(鉄輪)を被って3つの足のそれぞれに松明をともす。怒りの心をもって貴布称川に腰まで浸かり、立ったなら鬼となるであろう」と託宣した。 女は喜んで、神託通りの出で立ちで人が寝静まった夜更けに貴船の方へ走り出た。頭上では火が燃え上がり、体も顔も真っ赤な様は、さながら鬼のようで、これを見た人はたまげて倒れ伏し、そのまま死んでしまった。貴布称川に行き、7日間川に浸かったところ、生きながら鬼となった。 ある日、妻を裏切った男が晴明の元を訪ねる。このところ悪夢を続けてみるので占ってくれというのだが、晴明は「占うまでもない。これは女の恨みで、今夜のうちに命を取られるだろう」と言う。男は驚いて、元の妻との間になにがあったのかを包み隠さず告白した。話を聞いた晴明は、すでに男の命は今夜までと決まっているので、いまさら神仏に祈っても霊験はないだろうと言う。男は顔色を失い、震えおののいて晴明にすがったところ、晴明は「命を転じ替えよう」と言い、壇をしつらえた。 茅の葉で等身大の人形(ひとがた)を作り、夫婦の名字を内に書き籠め、灯明をあげ、御幣を祀り、神祇・冥道・五大明王・九曜・七星・二十八宿を奉った。晴明が一心不乱に祈っていたところ、突然雨が降り出し、雷光激しく、突風が吹き込む。壇上がしきりと鳴動したかと思うと、鬼女が現れ、人形の枕元に立ち、「あら、うらめしや」と言うやいなや、笞(しもと。木製のむち)を振り上げた。しかし不動明王の金縛法により苦痛を感じたため、「もう来ることはない」と言い置いてかき消すようにいなくなった。これにより男の命は助かった。 庚申の夜殿上の人々をわらわせし事 (元になったのは『宇治拾遺物語』巻十四の十一「俊平入道弟習算術語(俊平入道の弟、算術を習いし語)」。主人公を高階俊平の弟から晴明に置き換えている。浅井了意の別著作『北条九代記(鎌倉北条九代記)』の「大輔房源性異僧に遇ひ算術の奇特ある事付安倍晴明奇特の事」に同じ話が収録されている) 9月、庚申の夜。庚申講に天皇を始め、若い殿上人たちが集まって夜明かしをしていたが、皆眠気を催していた。そこで晴明が呼び出され、何としても眠気を覚ませと勅命された。 晴明が祈祷を行うと、切り灯台などの調度品が一箇所に集まって跳ね踊った。その様子がすさまじいため、天皇は「もう少し恐ろしくない事をせよ」と命じた。晴明が「ならば、皆さんを笑わせましょう」と言う。それに対して天皇は「申楽などは笑いもしようが、他に何か可笑しいことがあるのか」と問われる。晴明は目をしばたたいて「申楽でもありませんし、可笑しい物語りするわけでもなく、皆さんをただ笑わせます」と答えた。晴明は明るいところへ算木を持ち出して置き渡したのを見て、殿上人たちは「これがおかしいことなのか。どれ、笑うか」などと嘲笑するが、晴明はそれに応えず、算木を1本手に持って「皆さん、飽きるまで笑いなさい」と言う。 それを聞いた全員が、わけもなく可笑しくなって笑い出した。天皇は笑い転げて内に引っ込んでしまい、残された人々も笑いどよめく。何か特別なものを見たわけでもないのに、ひたすら可笑しくて笑いが止まらない。腹がよじ切れるような痛みに涙を流しつつ笑いながら、晴明に向かって手を合わせた。晴明が「笑い飽きましたか」と問うと、一同はやっとの思いでうなずき、笑いながら七転八倒しつつも手を摺り合わせた。そこで晴明が算木を押し崩すと、なんということもなく、可笑しさは冷めた。 花山院の御遁世(とんせい)をしる事 (前半は『大鏡』「六十五代(花山天皇)」が元になっている) 花山天皇は冷泉天皇の第一皇子として即位し、藤原頼忠の娘を女御とされた。この方は弘徽殿の女御と呼ばれたが、ほどなくして亡くなられた。その際の帝の嘆きは限りなかった。こうして心乱れる折り、後の関白藤原道兼が持っていた扇に心地観経の文句が書き付けてあるのを目にする。これにより寛和2年(西暦986年)6月22日発心し、厳久法師と道兼の2人だけを召し、後宮の貞観殿から忍び出て、花山寺で出家した。法号を入覚という。その後畿内の霊場を巡り、那智で3年修行し、奇瑞を得て、都に戻って花山寺で真言灌頂を受けた。亡くなったのは寛弘5年(西暦1008年)2月8日。享年41。天皇の位にあったのはわずか2年であった。 花山院が出家する夜、花山寺に向かう途中、晴明の屋敷の前を通った。そのとき晴明は縁に出て涼んでいたが、帝座の星が急に位置を変えるのを観た。晴明が「天皇が位を下りた徴。これはいかなる事か」と驚きの声を上げるのを天皇は物越しに聞き、足早に通り過ぎた。晴明は急ぎ参内しこれを報告したが、天皇の姿はすでになく、行方が知れなかった。晴明が天文の理に通じているのは、かくのごとし。 (後半は『後漢書』にある光武帝と厳子陵(厳光)の逸話(「逸民列伝 - 厳光伝」)が元になっている。ただし太宗は厳子陵とはまったく別の時代の人物で、了意が光武帝と太宗を取り違えている) その昔、唐の太宗(李世民、2代皇帝)が未だ野にあったとき、厳子陵という友人がいた。太宗が帝位について後、厳子陵を呼び出し、同じ寝床で夜もすがら語り明かしたのだが、このとき寝入った厳子陵の足が太宗の腹の上にもたせかけられた。同じ頃、天文台から「客星御座を犯す(身分卑しき者が天子の位を狙っている)」と奏聞があったが、これを聞いた太宗は「大した事はない」と笑って答えた。このようなことは、その妙によく通じていないと知りがたいものである。 三井寺鳴不動の事 (『今昔物語』『宝物集』『発心集』『三国伝記』『元亨釈書』『園城寺伝記』『寺門伝記補録』『曽我物語』といった平安時代から室町時代に至る多数の説話集に収録されている「泣不動縁起」が元になっている) 園城寺(三井寺)の智興阿闍梨は名僧であったが、あるとき伝染病にかかり、高熱に苦しむ様が耐えがたく見えた。加持祈祷や医療針灸の手立てを尽くしたが効果がない。弟子たちは晴明を呼んで祈祷を頼むが、晴明は病状を診て「これはすでに定まっている業なので、祈っても無駄だ。しかし自分には1つの秘符がある。もし智興と命を替えてもよいという者がいるなら、祈祷により移し替える」と言う。 弟子たちの多くが、日頃「智興のためなら命を捧げる」と言っている割に、晴明の申し出に応じようとする者がいない。その中で今年18歳になる證空(証空)法師だけが「仏法のために身を捨てるのは菩薩の行。今智興を失うのは国家の損失である。師匠のためなら命を捨てる」と進み出た。晴明も「それは師匠への大きな恩返しとなるであろう。このような志はまことに類いまれな例だ」と深く感動して、涙を流した。居合わせた人々も晴明同様、證空を賞賛した。 證空には年老いた母がいた。彼は母の元に赴き、「自分は学問を究めて名を揚げ、母の恩に報いようと思っていたが、今夜師の身代わりとなります。この世で顔を合わせるのはこれが最後。心残りなのは母上ことだけです」と告げた。これを聞いた老母に「師の恩、仏法のために命を捨てることを、嘆いて止めるべきではないでしょう。師匠の病状は差し迫っています。早くお帰りなさい」と言われ、證空は泣く泣く寺に帰った。 壇をもうけて晴明が祈祷したところ、智興の病はたちどころに平癒して、證空に移った。證空の苦しみは計り知れないもので、心の内で不動明王を念じたところ、夢うつつの状態で明王が現れ「そなたは、長年我を念じ、今また師の身代わりとなって命を差し出そうとしている。その志は類を見ない菩薩心である。よって我がそなたの身代わりとなろう」とのたまわった。すると證空の病はたちまち平癒したが、不動明王の絵姿は、病にかかったようになり、両目からはらはらと涙を流した。その涙の跡は今も残っており、世の人は、この不動尊を「泣不動尊」と名付けた。 魘魅(えんみ)の法をもって蛙(かわづ)をころす事 (『宇治拾遺物語』巻十一「晴明を心みる僧の事付晴明蛙を殺す事」が元になっている) あるとき、晴明が広沢僧正の御坊を訪れて話をしていると、若い僧たちが晴明に対して「式神を使うなら、たちどころに人を殺すこともできるのか」と問うた。晴明は答えて曰く、「刀でならともかく、どうして簡単に殺すことができるでしょう。小さい虫でさえ命を惜しむのは人と変わりません。罪もないのに殺せば、生き返らせるのが難しい。打ち捨てれば罪になることですから、そのようなことは意味のない行為です」と。 たまたま蛙が5、6匹池の方へ躍り出たところで、こどもや僧たちが「あの蛙をひとつ殺してみせてくれ」と晴明に所望した。晴明は「罪作りで無用な殺生を仰せつけになる御房たちだ。しかしこの晴明を試そうというのなら、殺して差し上げよう」といい、草の葉を摘み、呪文を唱えつつその葉を蛙の方へ投げた。草の葉は蛙の上に覆い被さるかと見えたとたん、蛙は押し潰されて死んだ。僧侶もこどももこの有様を見て、顔色を失い、恐ろしいことだと思った。
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