太唐の城荊山文殊堂炎上付伯道上人来朝并道満法師殺さるる事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 22:44 UTC 版)
「安倍晴明物語」の記事における「太唐の城荊山文殊堂炎上付伯道上人来朝并道満法師殺さるる事」の解説
(承前) 北宋の太平興国元年(西暦976年)11月、㓝山の文殊堂が原因不明の出火で消失した。伯道はこれはただ事ではないと驚き、日本の晴明の身に大事があったと考えた。雲気を見ると東方に死気がある。泰山府君法を執り行うと、壇上に晴明の姿が影のように映ったことから、何者かに殺されたことがわかった。そこで伯道は晴明の仇をとろうと日本へ渡った。 都へ上った伯道が一条戻橋の上で晴明の屋敷の場所を聞いたところ、弟子の道満と言い争いをして負け、昨年11月に斬首されたという。さらに伯道は、その遺骸を葬った塚はないかと問うたところ、賀茂川(鴨川)の五条川原に埋められたことがわかった。伯道は晴明を葬った塚を掘り返し、朽ち果ててばらばらになった遺骸を1箇所に集め、生活続命(しょうかつぞくめい)の法を行った。これにより晴明は元通りの姿で蘇生した。 伯道は自分の与えた三戒のすべて破った晴明を叱責した後、晴明を伴って道満の屋敷へ行き、晴明を物陰に隠して自分だけ「晴明に会いに来た」と中へ入っていった。応対に出た道満は、晴明が昨年死んだことを告げた。 ところが伯道は、昨日晴明と逢って今日の宿を借りる約束をしたという。道満はこれを笑い飛ばすが、伯道は晴明が生きていることをかたくなに主張し、「晴明が生きていて、ここに帰ってきたらどうする」と凄む。道満は「晴明が生きているならこの首を切るがいい。しかしこの世になければ、おまえの首を切る」と怒りを露わにした。 ここで伯道は隠れていた晴明を呼び入れ、道満は色を失い逃げようとするが、伯道の金縛りにより身動きができなくされた。晴明は道満の首を打ち、帳台へ逃げ込もうとした梨花を引き出し、同じく斬首した。道満と梨花は同じ穴に埋められた。 (この後埋めた場所=道満塚についての記述があるが、文章の内容が矛盾して意味をなさない。「#不適切な増補」参照) 伯道は「一生慎むように」と言い置いて帰国した。晴明は物忌みの後、参内するが、「おまえは幽霊か」と恐れ怪しまれたので、子細を説明すると「いよいよ奇特なこと」と思われた。官位は、元と同じ四位の主計頭、天文道博士に再選任された。
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