太和(泰和)四年での解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 22:54 UTC 版)
浜田耕策による2005年における研究では、次のとおり発表された。 〔表面〕 泰和四年五月十六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥<判読> 太和(泰和)四年五月十六日丙午の日の正陽の時刻に百たび練った□の七支刀を造った。この刀は出でては百兵を避けることが出来る。まことに恭恭たる侯王が佩びるに宜しい。永年にわたり大吉祥であれ。 〔裏面〕 先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖音(又は晋)故為倭王旨造傳示後世<判読> 先世以来、未だこのような(形の、また、それ故にも百兵を避けることの出来る呪力が強い)刀は、百済には無かった。百済王と世子は生を聖なる晋の皇帝に寄せることとした。それ故に、東晋皇帝が百済王に賜われた「旨」を倭王とも共有しようとこの刀を「造」った。後世にも永くこの刀(とこれに秘められた東晋皇帝の旨)を伝え示されんことを。 山尾幸久は、裏面では百済王が東晋皇帝を奉じていることから、369年に東晋の朝廷工房で造られた原七支刀があり、百済が372年正月に東晋に朝貢して、同年6月には東晋から百済王に原七支刀が下賜されると、百済では同年にこれを模造して倭王に贈ったとの解釈を行っている。また、当時の東晋では、道教が流行しており、七支刀の形態と、その百兵を避けることができるとする呪術力の思想があったとする。 浜田耕策は山尾幸久の分析を踏まえたうえで、百済王が原七支刀を複製して、刀を倭王に贈るという外交は、当時、百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋と冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている。 吉田晶は、年紀は泰和4年だが、月は「11月」と判読している。また、「聖音」は贈る百済王の世子(後の近仇首王)がみずからの権威を高める語であり、東晋の影響を考える必要はないと主張している。 これらの説は、「丙午」を次の「正陽」とあわせて、実際の日付ではなく吉祥句として解釈している。
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