セルビア人問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 10:08 UTC 版)
クロアチアの独立気運が高まる90年9月に、セルビア人が多数を占めるボスニア・ヘルツェゴビナ周辺部に「クライナ・セルビア人自治区」が設立された。一方で、西スラボニアでも、「スラヴォニア・バラニャ・西スレム自治組織」が結成された。この地域では一時的にクロアチアとセルビアの間で武力衝突を回避するため、クロアチア警察軍(英語版)を入れないと言う同意が成立していたが、91年3月2日に西スラボニアのパクラッツでクロアチア警察軍と、ユーゴスラビア連邦軍が睨み合う事態となり、3月31日には同じく西スラボニアのプリトビツァで、クロアチア警察軍とセルビア人住民との間で銃撃戦となり、死傷者が出る事態となった。クロアチア独立の直前となる5月には「クライナ・セルビア人自治区」で住民投票が行われ、90%の圧倒的多数で独立反対、ユーゴスラヴィアへの残留を支持した。 6月25日の独立宣言以降、クロアチアで散発した戦闘は、主にクロアチア警察軍とクロアチア国内に残留したセルビア系住民の間で繰り広げられたが、9月22日にユーゴスラビア連邦軍がザグレブを襲撃するに及び、クロアチアとユーゴスラビア連邦軍(この頃には独立を宣言した各共和国出身者が連邦軍から離脱しており、実質的にセルビア軍となっていた)の本格的な戦闘に発展した。特にクロアチア人とセルビア人が混住し、尚且つ連邦軍の侵入が容易であったスラボニアでは戦闘が過激であった。これらの地域では元々隣同士で住んできた住民が互いに銃を取り合う事態となった。中でもドナウ川を挟んでヴォイヴォディナと接するスラボニアのヴコヴァルでは87日間に亘って市街戦が展開され双方で3,000人近い死者を出した。(en:Battle of Vukovar、これを映画化したのが「ブコバルに手紙は届かない」である。) 一方12月にドイツがクロアチアの承認を行うと、これに反発したセルビア系住民の二つの自治組織「クライナ・セルビア人自治区」と「スラボニア・バラニャ・西スレム自治組織」は連合して「クライナ・セルビア人共和国」の設立を宣言した。クライナ・セルビア人共和国はクロアチア国内の1/3の面積を占めており、これを認めることはクロアチアにとって難しい選択であった。 1992年2月に国際連合の安全保障理事会はクロアチアへの国際連合保護軍(UNPROFOR)の派兵を決定するが、この平和維持軍の派兵では、互いに民族主権を主張しあう民族問題の最終的な解決には至らず、以降もクロアチア政府とセルビア系住民の間で戦闘が散発した。
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