セルビア人国家の隆盛
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「コソボの歴史」の記事における「セルビア人国家の隆盛」の解説
コソボは12世紀後半から次第にセルビア人国家の一部となっていった。13世紀、イヴァン・アセン2世(在位1218年 - 1241年)の下で第二次ブルガリア帝国が勢力を拡大し、コソボの大部分が一時的にブルガリアの領域の一部となったが、その死後はブルガリアの支配はコソボには及ばなくなった。その後、有力なセルビア人国家であったラシュカ公国の支配下に入り、1346年から1371年までセルビア帝国の一部となった。1389年のコソボの戦いでは、セルビア大公ラザル・フレベリャノヴィチはオスマン帝国の軍に敗れ、1455年、最終的にコソボはオスマン帝国の支配下となった。 12世紀までのセルビアは統一された国家ではなく、複数の独立勢力が割拠する状態であり、中でもラシュカ公国とドゥクリャ公国が最も大きな力を持っていた。1180年代、ラシュカ公国の大公となったステファン・ネマニャがドゥクリャとコソボの一部の支配権を獲得した。ステファン・ネマニャの後継者であるステファン・プルヴォヴェンチャニは1216年にコソボの残された部分の統治権を確保し、現在のセルビアおよびモンテネグロに相当する地域の大部分を支配下に収めた。これによってステファンは1217年にホノリウス3世より王の称号を与えられている。また、ステファン・ネマニャの末子はアトス山の修道士となり、後の1219年にセルビア正教会を設立し、その初代大主教サヴァとなった。サヴァはコソボ西部のペーチに大主教座を置いた。 ネマニッチ朝(Nemanjić)の統治下では、数多くのセルビア正教会の聖堂や修道院がセルビアの領域内に建てられた。ネマニッチ朝の支配者らはプリズレンやプリシュティナをその首都とした。今日のコソボ西部(メトヒヤ)では広大な領地が修道院に献じられた。コソボの有名な宗教建築物でコソボの中世建造物群として世界遺産に登録された、ペーチのペーチ総主教修道院やグラチャニツァ(Gračanica)のグラチャニツァ修道院、デチャニのデチャニ修道院などは、いずれもこの時代に造られたものである。 現在のコソボの首都となっているプリシュティナはかつて、ギリシャからアドリア海地方を結ぶ交通の要衝であり、コソボは経済的に重要な土地であった。鉱業も重要な産業であり、ノヴォ・ブルド(Novo Brdo)やヤニェヴォ(Janjevo)には鉱夫のサクソン人入植者や、ドゥブロヴニクの商人の共同体があった。1450年、ノヴォ・ブルドの鉱山では毎年6千キログラムの銀を採掘していた。 ネマチッチ朝のセルビア人国家は、ステファン・ウロシュ4世(ステファン・ドゥシャン)の時代に最盛期を迎え、彼は皇帝に即位しセルビア帝国となったが、1355年の皇帝の死後には衰退し、複数の半独立領主による群雄割拠の状態となる。この時、コソボ地域の大部分は、ヴク・ブランコヴィッチ(Vuk Branković)の支配下となった。アナトリアからヨーロッパに侵入し、拡大を続けていたオスマン帝国は、セルビア人国家の分裂の機に乗じて、バルカン中央部への侵攻を始めた。 セルビアの修道院が保存している金印勅書によると、この当時のコソボの民族構成は、セルビア人、アルバニア人、ヴラフ人のほか、一定の規模を持った少数民族としてギリシャ人、アルメニア人、サクソン人、ブルガリア人などであった。勅書に記された名前の多くはスラヴ風の名前であり、この当時のコソボで多数派を占めていたのはスラヴ人であったことを示唆している。同様の事実は後の1455年のオスマン帝国の徴税所の記録(デフテル Defter)にも見ることができ、言語と宗教の記されたこの記録からは当時のコソボではセルビア人が多数派であったことが示されている。中世ヨーロッパの民族意識は流動的なものであり、当時の人々が確固たる特定の民族意識を持っていたとはいえないが、スラヴ人、特にセルビア人の文化的背景を持った人々は当時のコソボでは多数派であったと考えられる。
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