武装した平和と内戦の再開
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「カトリーヌ・ド・メディシス」の記事における「武装した平和と内戦の再開」の解説
1563年8月17日、ルーアン高等法院はシャルル9世の成人を宣言したが、自身が統治にあたることはできず、また本人も政務にほとんど関心を示さなかった。カトリーヌはアンボワーズ勅令の実施と王室への忠誠を回復させるために「フランス大巡幸」を決意し、彼女はシャルル9世や廷臣たちとともに1564年1月から1565年5月にかけてフランス各地を巡った。カトリーヌはマコンとネラックでプロテスタントのジャンヌ・ダルブレ(ナバラ女王:ナバラ王アントワーヌの未亡人)と会見を持ち、また、彼女はスペイン国境近くのバイヨンヌで娘のエリザベートと再会した。フェリペ2世はこの機会に不在にすることを謝罪するとともに、アルバ公を派遣してカトリーヌにアンボワーズ勅令の廃棄と異端問題の断固たる解決法を見つけるよう求めた。 1566年、シャルル9世とカトリーヌは長年のオスマン帝国との同盟を頼りに、駐オスマン大使ギヨーム・ド・グランシャン・ド・グラントリ(英語版)を通してフランスのユグノーとフランスおよびドイツのルター派をオスマン帝国支配地域のモルダヴィアへ移住させて軍事植民地をつくり、ハプスブルク家に対する緩衝地帯となすことをオスマン宮廷に提案した。この計画はフランス国内からユグノーを排除できる利点があったが、オスマン帝国の関心をひくことはできなかった。 1567年9月27日、ユグノー軍は国王襲撃を企て(モーの奇襲(英語版))、これが内戦再開の引き金となった。不意を襲われた宮廷は無秩序にパリへと逃げ出した。戦争は1568年3月22日から23日のロンジュモーの和議(英語版)で終結したが、民衆暴動と流血沙汰は続いた。モーの奇襲はカトリーヌの対ユグノー政策の転換点となった。これ以降、彼女は妥協的な政策を放棄する。彼女はヴェネツィア大使に対して、ユグノーから期待できることは欺瞞だけだと語っており、ネーデルラントにおいて数千人のカルヴァン派と反乱軍を処刑したアルバ公の恐怖政治を称賛している ユグノー陣営の指導者。ガスパール・ド・コリニー(通称コリニー提督)(左)とジャンヌ・ダルブレ(ナバラ女王フアナ3世)(右) ユグノーは大西洋沿海地域の要塞化された拠点ラ・ロシェルへと退却し、ジャンヌ・ダルブレも15歳の息子アンリ・ド・ブルボンとともに彼らに合流した。ジャンヌはカトリーヌに対して「私たちは神と信仰を捨てるよりは死ぬことを決意してここへやって来た」と書き送っている。カトリーヌはジャンヌを「世界で最も恥ずべき女」と呼んだ。だが、資金を使い果たした国王軍は1570年8月8日にサン=ジェルマンの和議(英語版)を結び、ユグノーに対してそれまで以上の寛容を余儀なくされた。 カトリーヌは王室間結婚によってヴァロワ朝の権益をより一層確実なものとしようとした。1570年にシャルル9世は神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の皇女エリーザベトと結婚し、彼女はまた2人の王弟たちのいずれかをイングランド女王エリザベス1世と結婚させようともしている。1568年に長女エリザベートが出産の際に死去すると、末娘のマルグリットをスペイン王フェリペ2世の後添えにとしつこく勧めていたが、彼女はヴァロワ家とブルボン家の王位請求権を統合すべくマルグリットとアンリ・ド・ブルボンとの結婚を画策するようになった。だが、マルグリットはギーズ公アンリ(先に暗殺されたギーズ公フランソワの息子)とひそかに恋仲になっており、このことを知ったカトリーヌは激怒し、娘を寝室から連れて来させると、王とともに彼女を叩き、寝間着を引き裂き、そして彼女の毛髪をひとつかみ引き抜いた。 カトリーヌはジャンヌ・ダルブレに宮廷に出仕するよう圧力をかけた。彼女はジャンヌの息子との面会を求め、決して危害を加えないと約束すると書き送った。これに対してジャンヌは「申し訳ありません。私はお手紙を読んで笑ってしまいました。なぜなら、貴女様は私がかつて感じたことすらない恐怖を取り除いてくださると申されますので。私は、人々が言うように、貴女が小さな子供を食べてしまうと考えたことなどございません」と返書した。ジャンヌが宮廷に出仕すると、カトリーヌは彼女の手を強く握りしめ、最愛の息子に対する彼女の希望につけ込んだ。ジャンヌはアンリがユグノーに留まることを条件として、最終的に息子とマルグリットとの結婚に同意した。ジャンヌは結婚衣装を買うためにパリを訪れた際に病に罹り、44歳で急死した(これにより、息子のアンリ・ド・ブルボンがナバラ王位を継承した)。ユグノーの記録者たちはカトリーヌが手袋に毒を仕込み、ジャンヌを殺害したと非難している。結婚式は1572年8月18日にパリ市内のノートルダム聖堂で挙行された。
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