武装した平和(1563年 - 1567年)と第2次戦争(1567年 - 1568年)
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「ユグノー戦争」の記事における「武装した平和(1563年 - 1567年)と第2次戦争(1567年 - 1568年)」の解説
アンボワーズ勅令は全ての関係者にとって不満足なものであり、とりわけギーズ一派は異端との危険な妥協であると見なして反対した。それにもかかわらず、王家は両派の和合はイングランドに占領されているル・アーヴルの奪回のために必要であると考えていた。7月にイングランドを追い出すことに成功し、翌月シャルル9世は成人を宣言、カトリーヌ・ド・メディシスの摂政は終わった。しかしカトリーヌはなおも政治を主導し続け、1564年から1566年にかけて彼女は息子の国内巡幸に同行して国王の権威の再興を図っている。巡幸の最中の1565年2月、カトリーヌはスペイン王首席顧問アルバ公とバイヨンヌで会談を持った。会談の内容は不明だが(スペインがプロテスタント礼拝禁止を迫ったともされる)、熱烈なカトリックであるスペイン王フェリペ2世の使者との会談はユグノーたちに警戒される。 フランドルでの聖像破壊の報告を受けたシャルル9世が、この地のカトリックへの支援を行ったことが、ユグノーたちに危機感を起こさせた。スペイン軍がフランドルでのプロテスタントの反乱を鎮圧するためフランス領を通過し、その警戒のために国王が軍備を増強させたこともまた、ユグノーを恐れさせ、政治的不満が増大した。1567年9月にプロテスタント軍はシャルル9世を誘拐して自陣営に取り込もうと謀ったが失敗(モーの奇襲)、続いてラ・ロシェルなどのいくつもの都市がユグノー側に就くことを宣言した。ニームではカトリックは聖職者も平民も虐殺され、この事件はミチェラード(Michelade)と呼ばれている。 この事件が第2次戦争を引き起こした。主な戦闘はサン=ドニの戦い(1567年11月10日)で、国王軍が勝利したものの司令官アンヌ・ド・モンモランシーが戦死している。その後、ユグノーはオルレアンとブロワを攻略してパリに迫る。1568年3月にロンジュモーの和議が結ばれ、プロテスタントに対して信仰の自由と権利が与えられた。
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