初期オスマン時代
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オスマン帝国はこの地域にイスラム教を持ち込み、また後に帝国の行政区分のひとつとしてコソボ州(Vilayet of Kosovo)を導入した。オスマン帝国による統治はおよそ500年に及んだ。この時代、多くのスラヴ人がイスラム教を受容し、帝国に仕えた。 その後オスマン帝国によるこの地域の統治は長く続いた。この間、コソボ地域には、複数のサンジャク(県)(sanjak)と呼ばれる行政区画が置かれ、それぞれサンジャクベイによって統治された。ムスリム主導の統治ではあったが、キリスト教徒はその後もこの地域に住み続けることができ、時には帝国の統治下で更なる発展を見ることもあった。オスマン帝国による支配が始まった直後にはイスラム化が進められたが、その多くは都市部に集中していた。ムスリムには異教徒よりも高度な権利が与えられており、イスラムへの改宗の主たる理由は経済的、社会的なものであった。キリスト教徒の宗教活動はその後も続けられ、教会の活動も容認されていたが、正教会もカトリック教会も高い税を課せられていた。 アルバニア人の多くはイスラム教を受容した一方、セルビア人の間では改宗者は少数に留まった。オスマン帝国は16世紀中ごろに最盛期を迎えたが、その後オーストリアなどとの戦争によって疲弊し、帝国の財政が悪化すると、住民に対する課税が強化され、反発を生じるようになっていった。
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初期オスマン時代
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「北マケドニアの歴史」の記事における「初期オスマン時代」の解説
オスマン帝国の統治下では、一定の不平等な扱いと引き換えに非イスラム教徒が信仰を維持することが認められていた。オスマン帝国の支配下では、強制的な改宗は一部に留まっており、マケドニアでも多くの人々が正教会の信仰を維持していた。一方で、非イスラム教徒は税制や出世などの点で不利な扱いを受けており、これらを回避するためにイスラム教に改宗する者もいた。また、オスマン帝国の宗教的寛容のために、スペインなどで苛烈な弾圧を受けていたユダヤ人がオスマン帝国領となったマケドニアに大規模の流入し、この地域のユダヤ人人口は増加した。 セルビア正教会やブルガリア正教会といった民族ごとの正教会組織はその力を失い、廃止され、コンスタンディヌーポリ総主教庁へと統合されていった。ミッレト制の下で、正教徒は一括して総主教庁により管理され、マケドニアのスラヴ人の間では独自の「マケドニア人」民族意識はまだ生まれていなかった。一方、アルバニア人の間では、より多くの人々がイスラム教を受容した。 長いオスマン帝国の支配下で多様な民族の混在化が進み、マケドニア地域にはスラヴ人、アルーマニア人、トルコ人、アルバニア人、ギリシャ人、ロマ、ユダヤ人などが居住していた。この地域のスラヴ人の話す言語はブルガリア語に近く、マケドニア地方のスラヴ人はブルガリア人とみなされていた。
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