初期オブジェクティズム運動との関わり
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「レナード・ピーコフ」の記事における「初期オブジェクティズム運動との関わり」の解説
ピーコフは17歳の時カリフォルニア州で従姉のバーバラ・ブランデン(Barbara Branden、当時の姓はWeidman)を通じてアイン・ランドと会った。この時のランドとの出会いによって哲学の重要性に気付かされたとピーコフは述べている。1951年にランドがニューヨーク市に住まいを移すと、ピーコフはニューヨーク大学で哲学を学ぶことを決意した。ニューヨーク大学在学中、ピーコフは哲学に関する多様な問題についてランドと頻繁に議論した。 ピーコフは、ナサニエル・ブランデン(Nathaniel Branden)、アラン・グリーンスパン、バーバラ・ブランデンらランドと親しい門下生と共にマンハッタンにあるランドのアパートに頻繁に集まり、哲学や政治についてランドと議論した。また、当時ランドが執筆中だった『肩をすくめるアトラス』の原稿を読み議論した。1958年、ナサニエル・ブランデンはオブジェクティビズムを講義やセミナーを通じて広めるため、ナサニエル・ブランデン・レクチャーズ(後に「ナサニエル・ブランデン研究所」に改名)を設立した。ピーコフはナサニエル・ブランデン・レクチャーズ設立時の講演者の一人であり、哲学史に関するコースを担当した。 ランドは、1960年代におけるピーコフおよびアラン・ゴテルフ(Allan Gotthelf)との議論に動機づけられ、概念形成についての論文「オブジェクティビズム認識論入門」(Introduction to Objectivist Epistemology)を完成させた。この論文が1979年に書籍として出版された際、ランドはこの書籍の付録としてピーコフの論文「分析/総合の二分論」("The Analytic-Synthetic Dichotomy")を収録した。ランドが1969年から1971年にかけ自宅で開催したこの論文に関するワークショップにも、ピーコフは参画した。ピーコフは後にこのワークショップの記録を使用し、ハリー・ビンズウェンジャー(Harry Binswanger)と共同で『オブジェクティビズム認識論入門』の増補版を作成した。 ナサニエル・ブランデン研究所が1968年に解散した後も、ピーコフはオブジェクティビズム支持者を対象とする様々なテーマの講義を行い続けた。これらの講義の記録は現在も販売され続けている。ピーコフが行った講義には、「哲学の歴史」(The History of Philosophy)、「論理学入門」(An Introduction to Logic)、「思考の技術」(The Art of Thinking)、「物理学および哲学における帰納」(Induction in Physics and Philosophy)、「道徳的価値」(Moral Virtue)、「教育の哲学」(A Philosophy of Education)、「オブジェクティビズムを理解する」(Understanding Objectivism)、「客観的コミュニケーションの原理」(The Principles of Objective Communication)、「8つの偉大な戯曲」(Eight Great Plays)などがある。ピーコフが1976年に行ったオブジェクティビズムについての連続講義を、ランドは自分の哲学の解説として最高のものであり、自分が知る中で唯一の正確な解説であると保証した。 ピーコフの最初の著書『不吉な相似』(The Ominous Parallels)は、第三帝国およびホロコーストが台頭した原因をオブジェクティビズムの立場から説明すると同時に、ワイマール共和国と現代アメリカ合衆国の広範な哲学的・文化的相似を指摘し、アメリカ合衆国が全体主義に向かっていることを警告した本である。ランドはこの本の序文で、これは自分以外のオブジェクティビスト哲学者によって書かれた最初の本であると述べた。
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