初期イスラム教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:29 UTC 版)
クルアーン主義者は、ムハンマドの時代において、ハディースの記録はクルアーンとの混同を防ぐため、その記録行為は一切禁止されていたとする。 ムハンマドの教友の一人であるウマルも、カリフとしての統治中にハディースの記録を禁止しており、既存の記録を破棄したことで知られている。 ウマルはクーファ知事を任命した際、こう発言したことで知られている。「あなたは、クルアーンを朗誦する音が、あたかも蜂の羽音のように響き渡る町に行き着くだろう。ハディースで彼らの気をそらして、彼らを巻き込んではならない。クルアーンを剥き出しにし、神の使徒の伝統を語ってはならない」。 しかしその後、ウマルが述べたクーファの宗教生活におけるクルアーンの中心的役割は急速に変化する。その数十年後、ウマイヤ朝のカリフであるアブドゥルマリク・ブン・マルワーンに対し、クーファの民に関するこのような書簡が送られた。「彼らは主の裁きを放棄し、ハディースを宗教として組み込み、クルアーン以外の知識を得たと主張している。. . . 彼らは、人の手で書かれた、神からのものではない書物を信じ、それらを神の使徒に関連付けたのだ。」 その後の数年間で、本来禁止されていたハディースの記録と、その宗教的権威としての台頭により、ウマイヤ朝のカリフだったウマル2世(ウマル・ブン・アブドゥル=アズィーズ)は、初のハディースの公式編纂を命じるまでとなった。アブー・バクル・ブン・ムハンマド・ブン・ハズム(Abu Bakr ibn Muhammad ibn Hazm)、そしてイブン・シハーブ・アル=ズフリー(Ibn Shihab al-Zuhri)は、ウマル2世の要請によりハディースを著した学者であった。 このようなハディース許容への傾向も見られたものの、ハディース権威への懐疑的態度や、ハディース批判はアッバース朝時代にも根強く継続し、「アハル・アル・カラーム(Ahl al-Kalam)」として知られる集団は、ムハンマドが預言者としてもたらした模範とは、ハディースではなく「クルアーンのみに従うことにある」と主張した。
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