初期アメリカ心理学
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1875年頃にハーヴァード大学の生理学講師(以前からそうだった)ウィリアム・ジェームズが自身の講義で使うための実験生理学の小さな実験研究室を開いた。この研究室は当時本来の研究に使われることがなかったため、「最初の」実験心理学の研究室として扱うべきか否かという議論が行われ続けている。1878年に、ジェームズはジョンズ・ホプキンス大学で「知覚・脳とそれらの思考に対する関係」と題した連続講義を行い、そこでトマス・ヘンリー・ハクスリーを論駁して、意識とは随伴現象的なものではなく進化において何らかの機能を持っていたものに違いなく、もちろん人間によって選択されたものではなかったと主張した。同年にジェームズはヘンリー・ホルトに「新たな」実験心理学の教科書を書くよう契約させられた。彼がこれを素早く書きあげていれば、この分野における最初の英語での教科書となっていたであろう。しかし、彼の12巻に及ぶ『心理学原理』が出版されたのはその12年後であった。その間にイェール大学のジョージ・トランブル・ラッドや(1887年)、レイク・フォレスト大学のジェームズ・マーク・ボールドウィンが(1889年)教科書を出版した。 1879年にチャールズ・サンダーズ・パースがジョンズ・ホプキンス大学の哲学講師として雇われた。パースは天文学や哲学の研究でも知られているが、おそらくアメリカで初めての心理学実験をも行っており、色覚を主題として1877年に『アメリカン・ジャーナル・オヴ・サイエンス』を公刊した。パースと彼の弟子ジョゼフ・ジャストロウは1884年に『メモワーズ・オヴ・ザ・ナショナル・アカデミー・オヴ・サイエンス』誌上で論文「感覚の細かな違いについて」を発表した。1882年にはパースはグランヴィル・スタンレー・ホールによってジョンズ・ホプキンズ大学に赴任しているが、このスタンレー・ホールが1883年にアメリカで最初の実験心理学を専門とする研究室を開いた。後にパースはスキャンダルで職を辞することを余儀なくされ、スタンレー・ホールがジョンズ・ホプキンスで唯一の哲学教授となった。スタンレー・ホールは1887年に『アメリカン・ジャーナル・オヴ・サイコロジー』を創刊し、同誌は主に彼自身の研究室から出された論文を掲載した。1888年になるとスタンレー・ホールはクラーク大学の総長となるためにジョンズ・ホプキンスの教授職を辞し、引退するまでこの職にとどまった。 その後すぐに、実験心理学教室がペンシルヴァニア大学(1887年、ジェームズ・マッキーン・キャッテルによって)、インディアナ大学(1888年、ウィリアム・ローウェ・ブライアンによって)、ウィスコンシン大学マディソン校(1888年、ジョゼフ・ジャストロウによって)、クラーク大学(1889年、エドマンド・サンフォードによって)、マクレーン・アサイラム(1889年、ウィリアム・ノイエスによって)、ネブラスカ大学(1889年、ハリー・カーキ・ウォルフェによって)に創設された。しかし、プリンストン大学の1924年に創設されたEno Hallこそが、それがプリンストン大学心理学部の宿舎となった際に、専ら実験心理学を研究するアメリカで最初の大学の建物であった。 1890年代に、ウィリアム・ジェームズの『心理学原理』が最終的に発表され、アメリカ心理学史上で最も急速に広まった教科書となった。本書は、アメリカの心理学者が長年にわたって注視することになる種類の問題の基盤の多くを提供した。本書の中でも意識・感情・習慣に関する章が問題の前提を提供した。 ジェームズの『心理学原理』の影響を体感した者の一人としてミシガン大学の哲学教授だったジョン・デューイがいる。より若い同僚のジェームズ・ヘイデン・タフツ(ミシガンに心理学教室を設立した)やジョージ・ハーバート・ミード、そして弟子のジェームズ・ローランド・アンゲルとともに、このグループは心理学を再定式化し、これまでヴントやその弟子たちが重視してきた精神物理学の影響を受けた生理学的心理学よりも社会的環境と心や行動の「活動」に強く重点を置いた。タフツはミシガンを去って1892年に新しく設立されたシカゴ大学の若い地位に就いた。1年後、シカゴの老哲学者が職を辞し、タフツはシカゴ大学学長ウィリアム・レイニー・ハーパーにデューイに教授職を申し出るよう勧めた。最初に抵抗があったものの、デューイは1894年に雇われた。デューイはすぐにミシガンでの同僚のミードやアンゲルで学部の教員の空席を埋めた。この4人によってシカゴ心理学派の中核が形成された。 1892年に、グランヴィル・スタンレー・ホールは新たにアメリカ心理学会(APA)を創設する目的でクラーク大学で会合を開き、三十数人の心理学者・哲学者を招聘した。APAの例年の会合の一回目はペンシルヴァニア大学でジョージ・ステュアート・ファラートンの主催により同年後半に行われた。しかし、APAの中で実験指向のメンバーと哲学指向のメンバーとの間の対立がほぼ即座に湧き起こった。エドワード・ティチェナーとライトナー・ウィトマーによって哲学的言明のために分かれた「部会」を創立するかあるいは哲学者を完全に放逐するかという傾向が起こされた。10年ほどの議論の後、西洋哲学会が結成されて第一回の会合が1901年にネブラスカ大学で開かれた。翌年1902年には、アメリカ哲学会が第一回会合をコロンビア大学で開いた。これらは結局、現代のアメリカ哲学会の中央部と東部となった。 1894年には、『アメリカン・ジャーナル・オヴ・サイコロジー』の偏狭な編集方針に不満を抱いた数多くの心理学者がスタンレー・ホールに、同誌を彼の周辺で閉じたものとせずに編集委員会を設けてより多くの心理学者に開かれたものにするよう掛け合った。これをスタンレー・ホールが拒否したため、ジェームズ・マッキーン・キャッテル(コロンビア大学勤務)とジェームズ・マーク・ボールドウィン(プリンストン大学勤務)が共同で新たに『サイコロジカル・レヴュー』を創刊し、これがアメリカの心理学研究者の論文投稿先として急激に成長していった。 1895年初めに、ジェームズ・マーク・ボールドウィンとエドワード・ブラッドフォード・ティチェナー(コーネル大学)が、ヴントの研究室で生まれた(最初にルートヴィヒ・ランゲとジェームズ・マッキーン・キャッテルが報告した)例外的な反応時間の発見をどう解釈すべきかという、辛辣になり続ける議論に参加した。1896年に、ジェームズ・ローランド・アンゲルとアディソン・ウェブスター・ムーア(シカゴ大学)が『サイコロジカル・レヴュー』で一連の実験結果を発表して、二人の中でボールドウィンがより正しいことを示した。しかし、彼らはジョン・デューイによる心理学に対する新しいアプローチの観点から発見を解釈しており、それは伝統的な反射弓の刺激反応理解を否定して、「刺激」なるものと「反応」なるものは観察者が状況をどのようにみるのかに依存しているという「遠回しな」理解を選ぶものであった。完全な立場は、1896年にやはり『サイコロジカル・レヴュー』で発表された、デューイの画期的な論説「心理学における反射弓の概念」で開陳された。 ティチェナーは『サイコロジカル・レヴュー』(1898年、1899年)において、自身の心理学に対する厳密な「構成的」アプローチを、シカゴ学派のより応用的な「機能的」アプローチと彼が呼んだものと区別することで応答し、それによって構成主義と機能主義というアメリカ心理学で最初の大きな理論的断絶が生まれた。ジェームズ・マッキーン・キャッテル、エドワード・リー・ソーンダイク、ロバート・セッションズ・ウッドワースらが主導するコロンビア大学のグループは(シカゴに次ぐ)アメリカ機能主義の第二世代としばしばみなされる が、彼らの研究は心理検査、学習、教育といった応用分野に重点を置いていたために、彼らが自身にこの言葉を用いることは決してなかった。1899年にはデューイがAPAの会長に選出されたが、ティチェナーは会員資格を失った(ティチェナーは1904年に自身のグループを形成し、これが後に実験心理学協会として知られることになる)。1900年にはジョゼフ・ジャストロウがAPA会長として講話を行って機能主義的アプローチを喧伝し、アンゲルは1904年に彼による影響力の高い教科書で、1906年にAPA会長としての講話でティチェナーの分類を採用した。実際のところ、構成主義者は多かれ少なかれティチェナーとその弟子に限られる(最も影響力の高い教科書『実験心理学の歴史』を書いたティチェナーのかつての弟子エドウィン・ボーリングこそが、構成主義/機能主義論争が20世紀の転機におけるアメリカ心理学の断層線だという考えを始めた)。機能主義は概して、行為や応用といったより実践的な点をより強調し、アメリカの文化的な「スタイル」により合致しており、おそらくさらに重要なことに、大学の評議員や民間の資金提供機関の間でより人気が強かった。
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