初期イギリス時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 22:15 UTC 版)
「北部諸島 (イギリス)」の記事における「初期イギリス時代」の解説
15世紀初期から、シェトランド諸島の人々はハンザ同盟に属するドイツ人商人と取引するようになった。このドイツ北部との交易は、1707年に合同法が成立し、塩取引に対して高い関税が課せられたことで終わりを迎えた。その後、スコットランドとシェトランドの商人の間で塩漬け魚の取引が円滑に行われず、諸島経済は不況に陥った。しかしシェトランドの商人地主のなかには、ドイツ人商人の取引先を突き止め、自らの船に魚を積んで大陸との交易に乗り出した。これはシェトランド諸島の自営農家や猟師にとって、そういった商人地主を捜し出さなければならなかったため、逆効果となっていた。 イギリスの支配は商人だけでなく一般住人にも影響を与えた。イギリス海軍はシェトランド諸島の住民が有する航海技術に目を付けた。1800年から1815年にかけてナポレオン戦争の間に3,000人が従軍し、強制徴募も盛んに行われた。この時、フェトラー島単独で120名の徴募が有り、20人しか戻らなかった。19世紀末の段階で、シェトランド諸島の地所の90パーセントをたった32人の地主が所有していた。そして、1861年から1881年にかけて、シェトランド諸島から8,000名以上が移住していった。1886年、自由党の首相ウィリアム・グラッドストンは、小作人法(英語版)を成立させ、地主から小作人を解放した。この法律により、事実上地主の農奴だった農民が小規模な農園を所有する自作農へと変わることができた。 オークニー諸島での経緯は多少異なっていた。スコットランドの事業家が殺到し、農民や漁民、商人などが集まった相異なり独立したコミュニティーが作られていった。そういった人々は自身を“comunitatis Orcadie”と呼び、大領主から自らの権利を守るために有効であることを大いに知らしめていった。17世紀には、オークニー諸島出身者がカナダのハドソン湾会社において従業員の大半を占めていた。オークニー諸島の厳しい気候と住人にたいする「真面目」という評判、そして彼らが有する操船技術が、カナダ北部の冷厳な環境で働く人員として理想的な候補者であった。この時期、ケルプ(英語版)を燃やして灰を製造することが、島の経済の大黒柱となっていた。たとえば、シェイビンセー島(英語版)では、ソーダ灰を製造するために毎年3,000トンを越える海藻が焼却され、地元経済に20,000ポンドをもたらしていた。。農業改革は17世紀に共有地の囲い込みと同時に始まり、ヴィクトリアの治世には大規模で適切に管理された5輪作制を採用し高品質の肉牛を生産する農場が登場している。。19世紀までは、オークニー諸島に漁船団が存在した証拠はほとんどないが、ストロンゼー島では1840年代までに700隻まで急速に膨れ上がり、その後はストロムネス(英語版)が、発展の中心となっていった。19世紀になると、オークニー諸島の多くの漁民が北極海域で捕鯨に従事するようになったが、通常漁船はイギリスの何処かを本拠としていた。
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