初期アメリカ音楽の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 03:09 UTC 版)
アメリカは「人種のるつぼ」「人種のサラダ」などといわれるほどの移民の国である。クリストファー・コロンブスのアメリカ上陸を発端とした移民は17世紀ごろより盛んとなり、ヨーロッパ各国から多くの移民が流入した。主に奴隷として、カリブ海地域から北米に連れて来られた黒人もおり、時代が新しくなると中南米からの移民も増えてくる。数は少ないがアジア系の移民もおり、アメリカではこうした異なるルーツを持つ人々がそれぞれ固有の文化を持ち込んで暮らしていた。 ヨーロッパでは資本主義の興隆とともに多量の労働者が都市に流入し、19世紀後半には余暇に音楽を楽しむようになっていた。パーラー・ミュージック(応接間の音楽)と呼ばれる平易な伴奏による歌がホームパーティなどで中産階級女性によってピアノやギターで伴奏されて歌われ、現在では各国民謡として知られる。ミュージックホール(酒色を伴う男の憩いの場で行われる演劇)での歌や酒場・カフェで歌われるシャンソンも人気を集めていた。コミック・オペラやオペレッタなども、この頃に名作が数多く書かれ、人々の話題の種となっていた。社交ダンスも盛んで、そのための音楽も良く演奏されていたようである。こうしたヨーロッパの大衆音楽は、そのままアメリカの都市部に持ち込まれ、アメリカポピュラー音楽のルーツの一つとなっている。 アメリカの農村部では、ヨーロッパの民俗音楽がそのまま持ち込まれていた。アメリカへの移民は、イギリス・ドイツ・アイルランド・イタリア・ポーランド・ロシア・ユダヤなど多くの民族にまたがっているが、当初は持ち込んだ自民族の音楽をそのまま行っていたようである。こうしたヨーロッパ各国民謡も、アメリカポピュラー音楽のルーツとなっている。 北米の黒人奴隷の多くは、カリブ海地域から連れて来られており、アフリカを離れて100年ほど経っている。彼らのルーツは西アフリカにあり、ポリリズムを多用したホットなリズムの感覚は西アフリカに端を発するが、環境の厳しいカリブ海地域で白人と協力しながら厳しい労働をするうち、白人と黒人の音楽は混交し、ハバネラなどカリブ海地域の魅力的なジャンルを生み出した。南米でも同様に白人・黒人の音楽の混交が見られ、サンバやタンゴが生まれている。このような、黒人と白人の混交音楽も、アメリカポピュラー音楽のルーツの一つである。
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