初期アテナイ経済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:48 UTC 版)
初期のアテナイはギリシアでも後進地域であり、土地はやせ何の特産物も工芸品もない部族集落であった。暗黒時代に破壊を免れたのはアテナイのあまりの貧しさに侵略者であるドーリス人が攻撃の価値を見出せなかったから、という説もある。また、当然に独自の通貨を持つ技術も無く、アイギナの通貨・経済圏の下に組み込まれていた。 アテナイが経済的に注目されることになったのは、ソロンの改革以後である。ソロンはアテナイの産業不振の原因をアテナイ市民が商業や工芸の仕事を奴隷の仕事として卑しんでいるからだと考えて、故国を追われて亡命先を求める職人や貿易商人をアテナイに招聘できるように市民権獲得条件を緩和した。また、当時ギリシア最大の商業都市であったアイギナと商圏が重なる事から、アイギナの通貨圏から離脱してコリントス通貨圏に移った。これにより、東方から招き入れた職人達によって陶芸技術がアテナイに持ち込まれ、アテナイが陶器の産地になるとともに、アイギナ商人が及ばないコリントス経済圏に市場を広げる結果となった。 また、続くペイシストラトス時代にはマケドニアから来た鉱山技師によってラウリウム銀山の本格採掘が始まった。銀が採れないとされてきたギリシア地域で唯一本格的銀山を保有するアテナイは、これにより独自の通貨(ドラクマ銀貨)を生産する。そして食料自給率が推定で約3割から5割と低いアテナイにとって貴重な食料や船舶の材料である木材の輸入が可能となり、ギリシア世界の経済で優越した立場に立つ。銀山で働いていたのは奴隷達で、彼らの監督者はアテナイの財政を左右する要職として一流の市民が選ばれた。更にペルシア戦争最中の紀元前483年にラウリウム近くのマロネイアからも大規模な銀山が発見されると、当初は全市民に毎月産銀を分配する計画であったが、当時の指導者・テミストクレスの提案によって、その産銀を海軍予算に充てる事が了承された。アテナイがペルシアの侵攻を徒労に終わらせただけの海軍力を得たのも銀山のおかげであり、それは食料や木材の輸入量確保にとっても重要であった。
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