初期の黒船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 01:08 UTC 版)
日本とポルトガルの最初の接触は1543年とされている。1557年にポルトガルがマカオの使用権を獲得すると、マカオを拠点として、日本・中国・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになった。この際に使用されたのがキャラック船と呼ばれる、遠洋航海を前提に開発された大型の帆船である。全長は30mから60m、全長と全幅の比は3:1とずんぐりしている。排水量は200トンから大きなものは1200-1600トンとサイズには個体差が大きい。これらのキャラック船は防水のためにピッチで船体を黒色に塗っていたため、黒船と呼ばれた。1587年に豊臣秀吉が発布した伴天連追放令(松浦家文書)では、「黒船」の来航を認める内容が書かれており、1603年に編纂された日葡辞書にも Curofune として、「インドから来るナオ(キャラックのポルトガル呼称)のようなピッチ塗りの船」と記載されている。キャラックが発展したガレオン船や、「鎖国」中に長崎に来航したオランダ東インド会社のスヒップ船、ヤハト船、フリュート船も全て黒船と呼ばれた。 なお、江戸初期には日本でもウィリアム・アダムスによるサン・ブエナ・ベントゥーラ号や、慶長遣欧使節団のサン・ファン・バウティスタ号といった西洋式の外洋船が建造されている。
※この「初期の黒船」の解説は、「黒船」の解説の一部です。
「初期の黒船」を含む「黒船」の記事については、「黒船」の概要を参照ください。
- 初期の黒船のページへのリンク