初期イギリス心理学
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イギリス人にも初の心理学専門の学術雑誌―1876年にアレクサンダー・ベイン(英語版)により1876年に創刊され、ジョージ・クルーム・ロバートソンが編集を務めた『マインド』―があったが、この地で実験心理学が発展して「心の哲学」に挑戦するようになるまでには長い時間がかかった。『マインド』が創刊してから最初の二十年における実験的な論文はほとんどすべてがアメリカ人によるもの、特にグランヴィル・スタンレー・ホールやその弟子達(すなわちヘンリー・ハーバート・ドナルドソンやジェームズ・マッキーン・キャッテル)によるものであった。 フランシス・ゴルトン(1822年–1911年)の人体測定学研究室は1884年に開かれた。そこで人々は幅広く様々な肉体的(例えば打撃力)・知覚的(例えば視力の鋭さ)特性を検査された。ゴルトンは1886年にジェームズ・マッキーン・キャッテルの訪問を受けたが、キャッテルは後にアメリカ合衆国で自身の精神検査研究法を開発する上でゴルトンの手法を取り入れることになる。しかしながら、ゴルトンは本来心理学者ではなかった。彼が人体測定学研究室で蓄積したデータは主に彼の優生学的立場を支持するのに使われることになる。彼が蓄積したデータの山の解釈の助けとして、ガルトンは数多くの統計学的手法を開発したが、その中には原始的な点図表プロットや積率相関係数(後にカール・ピアソン、1857年-1936年、が完成する)が含まれていた。 その後すぐに、チャールズ・スピアマン(1863年–1945年)が、知性の二因子理論の事例を構築する上で、因子分析の相関型統計処理を開発して1901年に発表した。人は先天的に一般知性能力つまり「g因子」を持っていて、これが沢山の狭い領域において特定の技術を扱う能力(特定知性能力つまり「s因子」)として結実するのだとスピアマンは考えていた。 ドイツやアメリカ合衆国で営まれたような研究室での心理学がイギリスに到来するのは遅かった。1870年代中ごろから哲学者ジェームズ・ウォード(1843年-1925年)がケンブリッジ大学に精神物理学研究室を創設するよう働きかけていたが、1891年になってやっと基本的な用具を揃えるために50ポンドばかりがケンブリッジ大学から供出されたのであった。1897年に生理学部の援助を受けて研究室が創設され、心理学講座は開かれると最初にウィリアム・ヘイルズ・リヴァーズ・リヴァーズ(1864年-1922年)の手に渡った。リヴァーズはその後すぐにチャールズ・サミュエル・マイヤーズ(1873年-1946年)やウィリアム・マクドゥーガル(1871年-1938年)と交流を持った。このグループは心理学に対するのと同じだけの関心を人類学に示し、トレス海峡を1898年に探検したことで名高いアルフレッド・コート・ハドン(1855年-1940年)に同意した。 心理学協会が1901年に設立され(1906年に自らイギリス心理学協会と改名した)、1904年にウォードとリヴァーズが『ブリティッシュ・ジャーナル・オヴ・サイコロジー』を共同で創刊した。
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