欧米の研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 15:06 UTC 版)
西洋の学者は、ムスリムの学者と同じようにハディースに関する「特定の懸念」を持っていたが、ハディースをめぐるムスリムの議論に「直接的な影響」を与えることは「ほとんど」なかった。 1890年から1950年にかけて、欧米の東洋学者らによるハディース研究の時代が始まった。ゴルトツィーエル・イグナーツ(1850-1921)とジョセフ・シャハト(1902-1969)の(Mohammed Salem al-Shehri氏によると)「影響力を持つ2冊の礎となる著作」がそれである。イグナーツは、ハディースの信憑性に関する「批判的研究を開始」し、「ムハンマドのハディースの大部分は、それが属するとされるムハンマドの時代の証拠ではなく、むしろずっと後の時代の証拠である」と結論づけた(ワーイル・ハッラーク)。シャハトは後にイグナーツの批判的研究をより洗練させた。 ジョン・エスポジートは、「現代の欧米の研究者は、ハディースの歴史性と信憑性に深刻な疑問を投げかけている」と指摘し、「預言者ムハンマドに起因する伝承の大部分は、実際にはずっと後の時代に書かれたものである」と主張している。エスポジートによると、シャハトは「722年以前の伝承の正当な証拠は見つからなかった」とし、そこからシャハトは「預言者のスンナは、預言者自身の言動ではなく、それ以降に作られたアポクリファ由来の資料である」と結論づけている。ワーイル・ハッラークによれば、1999年時点では、ハディースの信憑性に対する欧米の学者の態度は、次の3つの立場をとっている。 シャハトが1950年に記念碑的となる著作を発表して以来、この問題(=真正性の問題)に関する学者の議論は盛んに行われてきた。それは、シャハトの結論を再現し、またはそれを超えようとする立場、反論しようとする立場、そして、両者の中間的な、おそらくは総合的な立場である。ジョン・ワンズブロー、マイケル・クックなどは前者に属し、ナビア・アボット、F・セズギン、M・アザミー、グレゴール・ショーラー、ヨハン・フュックなどは後者に属する。モツキ、D.サンティリャーナ、G.H.ジュインボル、ファズル・ラフマーン、ジェームズ・ロブソンは中間の立場である。 ヘンリー・プリザーブド・スミス及びゴルトツィーエル・イグナーツも、ハディースの信頼性に異議を唱えており、スミスは「伝承の捏造や創作は非常に早い時期に始まった」とし、「多くの伝承は、外面上はよく認証されていているかに見えても、捏造の内部証拠がある」と述べている。イグナーツは、「ヨーロッパのハディース学者たちは、ごく一部のハディースのみが、ムハンマドと彼に従う者たちの時代の実際の記録とみなすことができる」と記している。また、イグナーツは『ムハンマド研究』の中で次のように述べる。「政治的なものであれ、教義的なものであれ、イスラムにおける論争の的になっている問題の中で、様々な見解の支持者が、堂々としたイスナードを備えた伝承を多く引用できないことは驚くべきことではない」。歴史学者のロバート・G・ホイランドは、ウマイヤ朝時代には中央政府のみが法を制定することが許されていたが、宗教学者たちはこれに異議を唱え、預言者から伝えられたハディースがあると主張し始めたと述べている。これを聞いたハディースの伝承者であるシャアビーは、ウマル・イブン・ハッターブの息子アブドッラーから、1つのみを除き預言者のハディースを聞いたことはないと述べ、預言者のハディースを無闇に多く語って回る人々を批判した。ホイランドは、イスラムの歴史的資料がイスラム史を正確に表していると認めている。ドイツの東洋学者グレゴール・ショーラーは次のように記している。 「彼(ホイランド)は、それら(非イスラム教の資料)が初期イスラム教の歴史についての代替的な説明を支えるのにはほとんど適していないことを示している。」 バーナード・ルイスは次のように主張する。 「何らかの政治的目的のために新しいハディースが作られることは、現代に至るまで続いている」。第一次湾岸戦争の準備段階で、1990年12月15日にパレスチナの日刊紙「アル・ナハール」に掲載された「ある伝承」は、「現在、広く流布している」と説明されている。その内容は、「バヌー・アスファル(白人)、ビザンチンおよびフランク人(キリスト教徒)がエジプトと合同で、砂漠でサディム(サダム)という男に対抗し、一人も戻ってこないだろう」という捏造ハディースを、預言者ムハンマドの言葉として引用している。
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