欧米の霊長類生態学
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霊長類の生態の研究は20世紀初頭に始まった。ロバート・ヤーキーズは1910年代に霊長類研究所を作り、飼育下の霊長類の行動を研究した。ヤーキーズの弟子に当たるカーペンター、ヘンリー・ニッセン、ハロルド・ビンガムらは野生霊長類の調査のため東南アジアやアフリカに送られた。人類学者アーネスト・フートンと教え子シャーウッド・ウォッシュバーンも野生類人猿の研究を行った。しかし彼らの研究は第二次世界大戦の勃発によって中断した。 戦後の1956年にE.O.ウィルソンの大学院生であったスチュアート・アルトマンはいち早く研究を再開した一人である。アルトマンはサルの行動の頻度を統計的に記録した。1958年にはシカゴ大学のウォッシュバーンとその学生のアーヴィン・デヴォアがアフリカでヒヒの研究を始めた。1960年にはルイス・リーキーの指導の下ジェーン・グドールがゴンベでチンパンジーの観察を始め、1963年にダイアン・フォッシーがカバラでゴリラの観察を、1971年にはボルネオでビルーテ・ガルディカスがオランウータンの調査を始めた。グドールはチンパンジーにも個性があることや、戦争と呼べるような集団間の闘争を発見したが、非常に擬人的であったために報告が受け入れられるには時間がかかった。リーキーやウォッシュバーンは類人猿の行動を詳細に研究することは人類の進化の解明に繋がると期待していた。スチュアートと夫人のジーン・アルトマンは1971年からアンボセリ国立公園でヒヒの生態の研究を本格化させた。ジーン・アルトマンは特に、観察者バイアスを排除するために全ての個体を均等に観察するランダムサンプリング法を考案し、これは現在でも個体群生態観察の標準となっている。1974年にはドュボワの大学院生であったサラ・ハーディが、10年前に杉山幸丸が発見した子殺しの再調査のためにインドのアブ山を訪れ、それが異常行動ではないことを確認した。ハーディは子殺しの性的対立説を唱え、メスの対抗適応を発見し論争を引き起こした。 初期研究において、欧米の研究者は自然環境における適応は社会構造を速やかに移行させるのであるという生態決定論的な社会進化を構想していた。しかし現在ではより系統的慣性を重視した社会構造論に移りつつある。
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