欧米を外遊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 03:50 UTC 版)
「ヴィヴェーカーナンダ」の記事における「欧米を外遊」の解説
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} (左の写真) 檀上の万国宗教会議の参加者(1893年)。(左から)ウィーラチャンド・ガンディー(英語版)(ジャイナ教)、アナガーリカ・ダルマパーラ(仏教、セイロン)、ヴィヴェーカーナンダ(ヒンドゥー教)、(おそらく)ガストン・ボネーモリ(英語版)(キリスト教プロテスタントの歴史家、フランス)(右の写真) 東インドのグループとヴィヴェーカーナンダ。(左から)ナラシマーチャーリヤ(シヴァ派?)、ラクシュミー・ナーラーヤン(カーヤスタ(英語版)&アーリヤ・サマージ)、ヴィヴェーカーナンダ、H・ダルマパーラ、ウィーラチャンド・ガンディー ボンベイ、コロンボ、ペナン、シンガポール、香港、長崎、横浜を経て、バンクーバーに上陸し、シカゴまで列車で旅し、万国宗教会議に臨んだ。会議は当初7月開始予定だったのが9月に延期されていたが、ヴィヴェーカーナンダはそれを知らなかったため資金が枯渇し、神智学協会に援助を求めたが、協会の信条への同意を求められ拒否したため、援助を受けることはできなかった。会議への参加資格がいずれかの宗派、教派の代表でなければならないという原則も知らなかったため、会議前のアメリカでは非常に苦労したが、幾人かのアメリカの人々の助けを受け、会場にたどり着いた。 1893年に万国宗教会議第一回集会が始まった。ヴィヴェーカーナンダの他に、インドからは神智学協会、ブラフモ・サマージ、グジャラート州のジャイナ教、セイロンから仏教が参加した。会議はアメリカのキリスト教ユニテリアン教会が中心となって企画したもので、全体的にイスラム教の参加者が極端に少なく、有力メンバーはユニテリアンと思想の近い「オリエンタル」なアジアの宗教に偏っていた。また、植民地支配下のインドでは、エリートたちは西欧のオリエンタリズムの影響を受け、インドを西欧と比較する中で「神秘性」「精神性」を強調し、ナショナリズムに生かすことが求められる状況であった。 ヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナの教えを俯瞰したというアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)を根幹とする6回の講演を行い、ラーマクリシュナの諸宗教における神秘体験を基盤に、ヒンドゥー教とその普遍宗教的性質、普遍宗教の理想について、ヴェーダの教えの深遠さと他宗教に対する優位性、その科学性について語った。万国宗教会議での講演が最初の布教活動であり、インドの外で始められた。インドの民衆の窮状を語って救済を訴え、個人的な魂の救済のみでなく、社会的・物質的な救済も目指す出家者の新しい在り方を示した。高度な英語力と人目を引く容姿、説得力ある魅力的な語り口で、原稿をもたずに話した。例外的に一介の僧侶としての参加したことがプラスに働いたこともあり、「普遍宗教」の演説は熱狂的に歓迎され、欧米で非常に高い評価を受け、特にヨーガとヴェーダーンタ哲学に興味を持たせることに成功し、インド宗教・アジア宗教を代表する宗教者・思想家と位置づけられた。インド国内では、ヴィヴェーカーナンダを「ヒンドゥー教の救世主」とみなす人もいた等、その成功は称賛を集めた。 ヴィヴェーカーナンダの演説に熱狂した人には、ブラフモ・サマージの創始者ラム・モホン・ラエ(ラーム・モーハン・ローイ)に影響を受けたと言われるラルフ・ワルド・エマーソン流の超絶主義論者や、心霊主義、神智学、ニューソートのクリスチャン・サイエンスなどの新興のカルト的神秘主義的宗教のグループが多かったと言われる。当時のアメリカは、反・三位一体主義で神の唯一性を主張したキリスト教のユニテリアンや、神智学協会による近代神智学など、東洋の宗教に高い関心を持つ宗教・神秘思想があり、ユニテリアンは人間の理性の力、自己改善の能力、人間が完全なものになれる可能性を強く信じるなどヴィヴェーカーナンダの主張と重なる部分があった。また、1893年に金融恐慌があり、社会不安と貧困が広がって人々が疲弊していたことで、ヴィヴェーカーナンダの講演は注目を集めたのではないかと考えられる。アメリカで、超絶論者、ユニテリアンはインドの宗教・伝統の仲介者となった。 渡米の途中で立ち寄った日本で見聞した、近代化・西洋化の様子と、日本の仏教寺院の古代ベンガル文字で書かれたサンスクリット語のマントラ等に見られる極東にまで及んだインドの宗教の影響に感銘を受け、釈宗演、蘆津実全、平井金三らと並んで仏教部会(Buddhist Congress)にも出席し、仏教とヒンドゥー教はユダヤ教とキリスト教の関係と同様の関係性であること、仏陀の思想の論理性の高さや慈悲心の深さについて熱く語った。(なお、この万国宗教会議で、日本の釈宗演は、欧米世界に日本の禅仏教を初めて紹介する。) 彼の伝道活動は主にインド外で行われた。1894年にアメリカでヴェーダーンタ協会を設立。会議が終わるとアメリカからパリに寄って、1895年にイギリスのロンドンに行って講演をした。2、3年の間、彼はニューヨークとロンドンにヴェーダーンタ協会を開設し、主要な大学で講義を行って注目を集めた。ヴィヴェーカーナンダを歓迎したのは、彼が常々批判したキリスト教宣教師たちだった。 1895年末にイギリスからアメリカに戻り、インドの宗教と哲学に関する講義を続け、のちに『カルマ・ヨーガ』『バクティ・ヨーガ』『ジュニャーナ(ギャーナ)・ヨーガ』としてまとめられ、ハーバード大学での講義が『ヴェーダーンタ哲学』として出版された。アメリカ人の弟子もでき、クルパーナンダ、アブハヤーナンダ、ヨーガナンダ、シスター・ハリダーシーといったアメリカ人の弟子が加わってインドで科学や組織を教え、活発な東西交流が行われ、これがラーマクリシュナ・ミッションの運動につながった。 1897年にはロンドンで講演会を開いた。比較宗教学のマックス・ミューラーは彼をオックスフォード大学や幾つかのカレッジに紹介し、ヴィヴェーカーナンダから聞いたラーマクリシュナの話をまとめて『ラーマクリシュナの生涯と教え』を出版した。ここで出会ったイギリス人たちは、ヴィヴェーカーナンダに感銘を受けて渡印し、ヒマラヤにアーシュラムを作って住んだ。また、ヴィヴェーカーナンダはドイツにも招かれ講演を行った。 欧米の一般大衆から強い印象を受け、西洋の文明力と、女性の教養の高さに驚いた。 4年に及ぶ欧米での外遊と講義ののち、1897年に彼はインドに帰国した。
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