カルマ・ヨーガ
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「バガヴァッド・ギーター」の記事における「カルマ・ヨーガ」の解説
詳細は「ヨーガ」を参照 何人かの論評者が言葉を寄せているように、『バガヴァッド・ギーター』はカルマ・ヨーガの形でモークシャにアプローチする実用的な方法を提示している。カルマ・ヨーガの道は、ギャーナ・ヨーガとは違い、行為の必要性を保持している。しかしその行為は行為自体に執着することなく、結果を動機とすることなく遂行されなければならない。『バガヴァッド・ギーター』はこれを「行為の中に無為を見、無為の中に行為を見る(4章18節)」と表現している。ギーターには使われていないが、この利己が切り離された行為はニシュカム・カルマ(Nishkam Karma)ともよばれている。クリシュナは以下に示した句で、動機や執着から離れた行為の遂行について、物質的束縛からの、そして輪廻からの解脱を果たすための行為について詳しく述べている。 あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。 アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であるといわれる。 身体により、意(マナス)により、知性(ブッディ)により、また単に諸感官のみにより、ヨーギンたちは行為をなす。自己(アートマン)を清めるため、執着を捨て。 『 —バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳、(第2章47節、48節、第5章11節) マハトマ・ガンディは『バガヴァッド・ギーター』に寄せて以下のように記している。「わたしにはギーターの目的が自己実現のための最もすばらしい道を示すことにあるように思える。そしてこれは、私心のない行為によって、欲から離れた行為によって、結果を動機としない行為によって、全ての行為を神に捧げることによって、すなわち自身を自身の体と精神にゆだねることによって、完遂される」。ガンディは『バガヴァッド・ギーター』を「無私の行為の福音」と呼んだ。ギーターは真の解脱を達成するためには欲求と感覚的快楽を好む傾向をコントロールすることが重要であるとする。このことは次の句で取り上げられている。 人が感官の対象を思う時、それらに対する執着が彼に生ずる。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生ずる。 怒りから迷妄が生じ、迷妄から記憶の混乱が生ずる。記憶の混乱から知性の喪失が生じ、知性の喪失から人は破滅する。 —『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳、(第2章62節、63節)
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カルマ・ヨーガ(実践の道)
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「ヴィヴェーカーナンダ」の記事における「カルマ・ヨーガ(実践の道)」の解説
カルマは業、または行為と訳される。人が行う全ての働き、肉体の1つ1つの動き、それぞれの思いは心の実質の上に印象を残し、それが表面に現れずとも下層において潜在意識として働くだけの力を持つようになるという。各瞬間における人間の存在は、心に刻まれたこれらの印象の総計によって決まるとし、行為が人間の存在を決めると考えた。カルマヨーガは行為の結果から自由な無執着により合一を目指す。 日常的な仕事が重要で、仕事は知や力を呼び起こす打撃だとヴィヴェーカーナンダは説いた。善は立場や文化によって様々な相対的なものとされ、何が善行なのかはあまり重視されない。人それぞれが自分の置かれた立場にあってその義務を果たすことが偉大だとされるカルマ・ヨーガの共通の理想は、利己的な動機を離れた無私の働きである。カルマ・ヨーガの行者は日常の働きで真理を得るため、高名な宗教家とはなりにくいが、知によって真理を得たブッダ、愛により真理を得たキリストと同じように偉大だとヴィヴェーカーナンダは主張する。最も平凡な生活の中に偉大なものがいるとするこの教えは、民衆に目を向ける社会的実践とも関係する。
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