超能力・ヨーガ教室「鳳凰慶林館」・「オウムの会」
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「オウム真理教の歴史」の記事における「超能力・ヨーガ教室「鳳凰慶林館」・「オウムの会」」の解説
1983年(昭和58年)夏(28歳)、阿含宗脱会。東京都渋谷区桜丘に、サイコロジー(心理学)・カイロプラクティック・仙道・ヨーガ・東洋医学・漢方などを統合した能力開発の指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」を開設、塾生は女性に限定されており、ダイエット美容や健康法が中心だった。松本はこの時「麻原彰晃」と名乗り始める。 1984年(昭和59年)2月、「鳳凰慶林館」からヨーガ教室「オウムの会」へと鞍替えした。同年5月28日にはオウム株式会社を設立。この時、長兄に「教祖になってくれないか」と依頼している。この頃、麻原は平和健食も設立し(株式会社オウムと同一住所)、美容薬品「貴妃」を販売した。1984年6月には飯田エリ子の紹介で、麻原が販売する健康食品のモデルとして、石井久子が訪れる。当時は超能力の獲得を目指すアットホームで明るいヨガ教室だった。 この頃、オカルト系雑誌の『月刊ムー』が、このオウムの会を「日本のヨガ団体」として取材、写真付きの記事を掲載した。麻原はこれらオカルト雑誌に空中浮揚の瞬間と称する写真を掲載したり、ヒヒイロカネについての記事や、『生死を超える』『超能力秘密の開発法』などの本を宣伝した。 1985年9月、週刊プレイボーイの超能力担当記者にヨーガによる解脱で核戦争による人類滅亡を乗り越えるのが会の趣旨であると述べる。雑誌『トワイライトゾーン』1985年10月号で「2006年までに核戦争の第一段階は終わっている」「核戦争は浄化の手段ですね。だから、私はノアの方舟も信じられます。選りすぐったレベルの高い遺伝子だけを伝えるんです。だけど、人が「自分の分け前をさいて人に与えよう」というように考えない限り、浄化はなくならないんですね。」「私の目指すのは最終的な国なんです。それは、仏教的・民主主義的な国、完璧な超能力者たちの国」、理想郷シャンバラを確立するために神になる修行をしたと取材に答えた。前年に出版された「ムー」1984年11月号「特集 地底からの救済 シャンバラ大予言」では、チベットに伝わるシャンバラ王国には、賢者たちが住み、核戦争後の霊的戦争において、神軍を組織して、邪悪な軍団を迎え撃つ。キリストや釈迦はシャンバラの使者で、ヒトラーはシャンバラを探究し、超科学によるオカルト兵器を開発した。悟りを得た菩薩(阿羅漢)が5万人いれば、人類は救済されるという内容で、オウムの教義と重なる。また、超意識の進化では「頭脳と頭脳が直接交流できれば、誤解のない直接的な精神の交流が可能」とされ、これはPSIのアイデアとなった。1985年9月には阿含宗が「シャンバラ」を商標登録して、その名を冠したサロンを開設したり、冊子「シャンバラ通信」を刊行した。オウム神仙の会も阿含宗と競うように「シャンバラ新聞」を刊行した。 1985年12月にヒマラヤの完成者マニクラチューからインドへ来いとの啓示があり、1986年(昭和61年)1月、麻原はインドを訪問し、スワミ・アガンダナンダやパイロット・ババ(Pilot Baba)等と会う。 1986年3月に刊行した書籍「ザ・超能力秘密の開発法」では仙道、仏教、密教、ヨーガの集大成として「だれでもこの方法で修行すれば超能力者になれる」と説き、また同書では、全生物の中に仏性・神性を認めそれから学び奉仕するというカルマ・ヨーガを修行に加えたとし、「例を挙げるならば、自分を裏切ったり、悪口を言ったりする人がいても、そういう人たちの行為を認め、自分を見つめ直す機会として学ぶのである。(略)わたしに、このヨーガが必要だったのは、傲慢になりやすい人間だったからである。よくよく自分の性格を分析すると、自分だけが正しいという思い込みがあって、他の人の心の動きを当然のことのように無視してしまうことがあったのだ」とも書いた。また,イニシエーションとして、クンダリニーという霊的エネルギーを覚せいさせて超能力を身に着けることができるシャクティパット等のセミナーを開催した。
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