高等商業学校教授となる
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※ 特記ない限り、本節の出典は、大庭高志「【報告】神田乃武文庫について」(一橋大学附属図書館研究開発室年報、第2号、2014年、PDF)。 明治26年(1893年)9月、帝国大学文科大学教授であった満36歳の神田は、高等商業学校(明治35年に東京高等商業学校〈東京高商〉、大正9年に東京商科大学〈東京商大〉、現:一橋大学)教授に転じ、大正5年(1916年)に依願退官するまで在職した。 明治30年(1897年)、高等商業学校附属外国語学校(明治32年に東京外国語学校、現:東京外国語大学)教授を兼ねた(明治33年まで)。明治31年(1898年)7月19日、養父・神田孝平の死去により男爵を襲爵。明治32年(1899年)、東京外国語学校校長(初代)を兼ねた(明治33年まで)。 明治33年(1900年)、イギリスおよびドイツに1年間留学。留学中の明治34年(1901年)には、石川巌・石川文吾・瀧本美夫・津村秀松・福田徳三・志田鉀太郎・関一など、欧州に留学していた高等商業学校の若手の教授たちと共に、ベルリンにおいて「商業大学の必要」を建議し、高等商業学校の大学昇格運動を開始した。 明治35年(1902年)、学習院教授を兼ねた(明治44年まで)。明治43年(1910年)、貴族院男爵議員。 大正5年(1916年)1月15日、満58歳で東京高等商業学校教授を依願退官し、東京高等商業学校名誉教授。退官後、直ちに東京高商講師を嘱託された神田は、大正12年の死去に至るまで東京高商・東京商大で教鞭を執り続けた。 大正9年(1920年)、東京高商の大学昇格が実現して東京商科大学が発足すると同時に、東京商科大学名誉教授(東京商大の名誉教授第一号)。大正10年(1921年)、欧米を外遊した際に母校たるアマースト大学を訪問し、法学博士号(LL.D.)を授与された。 最晩年まで東京商大の教壇に立ち、退官後に欧米に複数回赴くなど、衰えを見せなかった神田であるが、大正12年(1923年)12月30日、癌と気管支炎により死去した。満66歳没。神田が愛した東京商大は、大学葬を挙行して神田の労に報いた。
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