高等女学校・新制高等学校時代とは? わかりやすく解説

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高等女学校・新制高等学校(女子校)時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:29 UTC 版)

愛知県立旭丘高等学校」の記事における「高等女学校新制高等学校女子校時代」の解説

1924年大正13年4月 - 名古屋市第二高等小学校東区東片端町)を仮校舎として「名古屋市第三高等女学校」が開校1927年昭和2年4月 - 東片端新校舎移転1928年昭和3年10月 - 開校式を挙行1945年昭和20年3月 - 名古屋大空襲により全校舎を焼失4月1日 - 戦時教育令により、1945年度(昭和20年度)1年間授業停止される。ただし勤労動員継続8月9月 - 終戦後教育ニ関スル戦時非常措置方策戦時教育令等が廃止され授業再開される筒井国民学校を仮校舎として使用11月 - 内山国民学校を仮校舎として使用1947年昭和22年4月1日 - 学制改革六・三制実施が行われる。高等女学校生徒募集停止1年生不在)。 新制中学校併設し(名称:名古屋市第三高等女学校併設中学校、以下:併設中学校)、高等女学校2年修了者新制中学校2・3年生として収容併設中学校経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集行われず在校生2・3年生のみの中学校であった高等女学校3・4年修了者そのまま高等女学校在籍し4・5年となった4年修了時点卒業することもできた)。 1948年昭和23年4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により、高等女学校廃止され新制高等学校名古屋市立第三高等学校」(女子校)が発足高等女学校卒業生5年修了者)を新制高校3年生高等女学校4年修了者新制高校2年生併設中学卒業生3年修了者)を新制高校1年として収容併設中学校新制高校継承され(名称:名古屋市立第三高等学校併設中学校)、在校生1946年昭和21年)に高等女学校最後に入学した3年生のみとなる。

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高等女学校・新制高等学校(女子校)時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 15:12 UTC 版)

岡山県立矢掛高等学校」の記事における「高等女学校新制高等学校女子校時代」の解説

1913年大正2年) - 4月1日、「小田郡矢掛尋常高等小学校附設矢掛女学校」が設立1915年大正4年) - 4月1日組織改編により、「矢掛町実科高等女学校」と改称1920年大正9年) - 5月、「岡山県矢掛高等女学校」と改称1923年大正12年) - 4月1日、「矢掛町外七ヶ町村組合女学校」と改称1939年昭和14年) - 4月1日岡山県移管され、「岡山県矢掛高等女学校」と改称1947年昭和22年) - 4月1日学制改革六・三制実施)により、新制中学校併設(以下・併設中学校)。 1948年昭和23年) - 4月1日学制改革(六・三・三制の実施)により、高等女学校廃止され新制高等学校岡山県矢掛第二高等学校」(女子校)が発足1949年昭和24年) - 3月31日最後卒業生送り出し併設中学校廃止

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高等女学校・新制高等学校(女子校)時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 08:59 UTC 版)

高知県立高知丸の内高等学校」の記事における「高等女学校新制高等学校女子校時代」の解説

1893年明治26年4月1日 - 高知県尋常中学校より分離の上高知県高等女学校として独立年度始め4月変更する1897年明治30年4月1日 - 小学校教員養成目的とした補習科設置入学資格高等女学校本科卒業修業年限を1か年定員30名とする。 1900年明治33年8月 - 校友会発足当初会員数は約200名。 1901年明治34年6月 - 高知県高等女学校改称11月 - 袴の裾に白線1本を加える。当時女学生装いひさし髪長袖木綿の袴、赤い鼻緒下駄といった和装であった1904年明治37年4月 - 寄宿舎設置1905年明治38年6月 - 紋章制定1914年大正3年7月 - 旧・高知県農林学校跡(現在地)に移転講堂屋内体操場を増築募集定員150名(3学級)とする。 1922年大正11年4月1日 - 高知県高知高等女学校改称定員を1,000名・20学級とする。 1926年大正15年4月1日 - 高等女学校高知県高知第二高等女学校)の新設に伴い高知県高知第一高等女学校改称修業年限を5ヶ年定員を1,000名とする。女学生服装和服から洋服変更する1928年昭和3年10月 - 創立40周年記念し校歌初代)制定作詞は沖良貞、作曲宮原禎次よる。 11月 - 開校40周年記念式典挙行。もともと前年に行う予定であった大正天皇崩御のため式を一年延期して行われた1935年昭和10年3月 - 校歌二代目)を制定作詞土井晩翠作曲下総皖一よる。 1938年昭和13年2月 - 校舎落成および開校50周年記念式典挙行1945年昭和20年6月 - 空襲により、校舎講堂消失1946年昭和21年4月1日 - 高知県第二高等女学校統合し高知県高知高等女学校改称終戦により、4ヶ年短縮されていた修業年限が5ヶ年に戻る。 1947年昭和22年4月1日 - 学制改革六・三制実施高等女学校生徒募集停止新制中学校併設(以下・併設中学校)し、高等女学校1・2年修了者新制中学校2・3年生として収容併設中学校はあくまで暫定的に設置されたもので、新たな生徒募集行われず在校生高等女学校から収容され2・3年生だであった高等女学校3・4年修了者そのまま高等女学校4・5年生となる。 1948年昭和23年3月 - 本館完成4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により、高等女学校廃止され新制高等学校高知県高知女子高等学校発足高等女学校卒業生希望者)を新制高校3年生高等女学校4年修了者新制高校2年生として編入併設中学校卒業生新制高校1年生として収容併設中学校在校生が、1946年昭和21年)に高等女学校最後に入学した3年生だけとなる。 1949年昭和24年3月31日 - 最後卒業生送り出し併設中学校廃止

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