高等女学校・新制高等学校(女子校)時代
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「愛知県立旭丘高等学校」の記事における「高等女学校・新制高等学校(女子校)時代」の解説
1924年(大正13年)4月 - 名古屋市立第二高等小学校(東区東片端町)を仮校舎として「名古屋市立第三高等女学校」が開校。 1927年(昭和2年)4月 - 東片端新校舎に移転。 1928年(昭和3年)10月 - 開校式を挙行。 1945年(昭和20年)3月 - 名古屋大空襲により全校舎を焼失。 4月1日 - 戦時教育令により、1945年度(昭和20年度)1年間の授業が停止される。ただし勤労動員は継続。 8月・9月 - 終戦後、教育ニ関スル戦時非常措置方策・戦時教育令等が廃止され、授業が再開される。筒井国民学校を仮校舎として使用。 11月 - 内山国民学校を仮校舎として使用。 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)が行われる。高等女学校の生徒募集を停止(1年生不在)。 新制中学校を併設し(名称:名古屋市立第三高等女学校併設中学校、以下:併設中学校)、高等女学校・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。 併設中学校は経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。 高等女学校3・4年修了者はそのまま高等女学校に在籍し、4・5年生となった(4年修了時点で卒業することもできた)。 1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により、高等女学校は廃止され、新制高等学校「名古屋市立第三高等学校」(女子校)が発足。高等女学校卒業生(5年修了者)を新制高校3年生、高等女学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学卒業生(3年修了者)を新制高校1年として収容。 併設中学校は新制高校に継承され(名称:名古屋市立第三高等学校併設中学校)、在校生が1946年(昭和21年)に高等女学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
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高等女学校・新制高等学校(女子校)時代
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「岡山県立矢掛高等学校」の記事における「高等女学校・新制高等学校(女子校)時代」の解説
1913年(大正2年) - 4月1日、「小田郡矢掛尋常高等小学校附設矢掛女学校」が設立。 1915年(大正4年) - 4月1日、組織改編により、「矢掛町立実科高等女学校」と改称。 1920年(大正9年) - 5月、「岡山県矢掛高等女学校」と改称。 1923年(大正12年) - 4月1日、「矢掛町外七ヶ町村組合立女学校」と改称。 1939年(昭和14年) - 4月1日、岡山県に移管され、「岡山県矢掛高等女学校」と改称。 1947年(昭和22年) - 4月1日、学制改革(六・三制の実施)により、新制の中学校を併設(以下・併設中学校)。 1948年(昭和23年) - 4月1日、学制改革(六・三・三制の実施)により、高等女学校は廃止され、新制高等学校「岡山県立矢掛第二高等学校」(女子校)が発足。 1949年(昭和24年) - 3月31日、最後の卒業生を送り出し、併設中学校を廃止。
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高等女学校・新制高等学校(女子校)時代
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「高知県立高知丸の内高等学校」の記事における「高等女学校・新制高等学校(女子校)時代」の解説
1893年(明治26年)4月1日 - 高知県尋常中学校より分離の上、高知県高等女学校として独立。年度始めを4月に変更する。 1897年(明治30年)4月1日 - 小学校教員の養成を目的とした補習科を設置。入学資格を高等女学校本科卒業、修業年限を1か年、定員を30名とする。 1900年(明治33年)8月 - 校友会が発足。当初の会員数は約200名。 1901年(明治34年)6月 - 高知県立高等女学校と改称。 11月 - 袴の裾に白線1本を加える。当時の女学生の装いはひさし髪に長袖、木綿の袴、赤い鼻緒の下駄といった和装であった。 1904年(明治37年)4月 - 寄宿舎を設置。 1905年(明治38年)6月 - 紋章を制定。 1914年(大正3年)7月 - 旧・高知県立農林学校跡(現在地)に移転。講堂屋内体操場を増築。募集定員を150名(3学級)とする。 1922年(大正11年)4月1日 - 高知県立高知高等女学校と改称。定員を1,000名・20学級とする。 1926年(大正15年)4月1日 - 高等女学校(高知県立高知第二高等女学校)の新設に伴い、高知県立高知第一高等女学校と改称。修業年限を5ヶ年、定員を1,000名とする。女学生の服装を和服から洋服に変更する。 1928年(昭和3年)10月 - 創立40周年を記念し、校歌(初代)を制定。作詞は沖良貞、作曲は宮原禎次による。 11月 - 開校40周年記念式典を挙行。もともと前年に行う予定であったが大正天皇崩御のため式を一年延期して行われた。 1935年(昭和10年)3月 - 校歌(二代目)を制定。作詞は土井晩翠、作曲は下総皖一による。 1938年(昭和13年)2月 - 校舎落成および開校50周年記念式典を挙行。 1945年(昭和20年)6月 - 空襲により、校舎と講堂を消失。 1946年(昭和21年)4月1日 - 高知県立第二高等女学校を統合し、高知県立高知高等女学校と改称。終戦により、4ヶ年に短縮されていた修業年限が5ヶ年に戻る。 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)高等女学校の生徒募集を停止。 新制中学校を併設(以下・併設中学校)し、高等女学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。 併設中学校はあくまで暫定的に設置されたもので、新たな生徒募集は行われず、在校生が高等女学校から収容された2・3年生だけであった。 高等女学校3・4年修了者はそのまま高等女学校4・5年生となる。 1948年(昭和23年)3月 - 本館が完成。 4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により、高等女学校は廃止され、新制高等学校高知県立高知女子高等学校が発足。高等女学校卒業生(希望者)を新制高校3年生、高等女学校4年修了者を新制高校2年生として編入。併設中学校卒業生を新制高校1年生として収容。 併設中学校の在校生が、1946年(昭和21年)に高等女学校へ最後に入学した3年生だけとなる。 1949年(昭和24年)3月31日 - 最後の卒業生を送り出し、併設中学校を廃止。
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