キージンガーへの平手打ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 14:17 UTC 版)
「ベアテ・クラルスフェルト」の記事における「キージンガーへの平手打ち」の解説
「クルト・ゲオルク・キージンガー」も参照 翌1964年12月1日、ベアテは仏独協力条約に基づいて創設された仏独青少年局 (OFAJ) のバイリンガル事務局を担当することになった。1966年にドイツキリスト教民主同盟 (CDU) の党首にナチス・ドイツ政権下で外務省宣伝部の官僚であったクルト・ゲオルク・キージンガーが選ばれ、一部のメディアがキージンガーの過去に触れたが、すでにナチスの戦争犯罪の裁判に対する国民の関心が薄れていたため、抗議の声は上がらなかった。しかし、ベアテは歴史学者としてナチス・ドイツによるユダヤ人強制移送の調査を進めていたセルジュの協力を得て、1967年1月14日にフランスの日刊紙『コンバ(闘争)』に「ドイツの2つの顔」という記事を掲載してこうした状況を告発し、さらに、3月にも同様の記事を書いたため、仏独青少年局に解雇されることになった。にもかかわらず、ベアテはセルジュが収集した情報に基づいて意識啓発のために、そして第二次大戦中にユダヤ人強制移送を主導しながら長く処罰されなかった主要な元親衛隊隊員を裁判にかけるために闘い続けた。1968年4月2日、ベアテはベルリンのCDU党大会でキージンガーの演説を遮り、「キージンガーはナチだ、辞任しろ」と叫び、警備員に連れ出された。さらに1968年11月7日のCDU党大会では『シュテルン』紙の報道カメラマンの取材許可証を借りて会場に入り、キージンガーに平手打ちを食らわせ、禁錮刑1年を言い渡された(控訴審で執行猶予付き4か月に減刑)。この「ベアテの平手打ち」はナチスによる戦争犯罪を追及し、裁判による正義の実現を求める「ナチ・ハンター(戦犯追及者)」としてのクラルスフェルト夫妻の活動の第一歩となった。世界中のメディアがこの事件を大々的に取り上げ、ベアテが反ユダヤ主義との闘いのシンボルとなったからである。ベアテは、「かつてのナチが党首になるなど許し難いことだ。平手打ちを食らわせたのはこのことをはっきり示すためであり、全世界に対してこれは恥ずべきことだ、許されないことだと言うドイツ人がいることを知ってもらうためである」と語っている。さらに、「平手打ち事件」により拘留されたものの、二重国籍(ドイツ、フランス)であるためにいったん釈放されると、「一週間後にブリュッセルへ行き、北大西洋条約機構の会議で演説することになっていたキージンガーに抗議するデモを行った。キージンガーが演説を始めようとすると、彼を非難する声が次々と飛び交い、演説ができなくなった。彼の政治家としてのキャリアが危うくなった。元反ナチス活動で1969年に第4代ドイツ連邦共和国首相に就任したヴィリー・ブラントが恩赦を与えてくれた。平手打ちの写真は、現在、ドイツ歴史博物館に展示されている」と説明している。
※この「キージンガーへの平手打ち」の解説は、「ベアテ・クラルスフェルト」の解説の一部です。
「キージンガーへの平手打ち」を含む「ベアテ・クラルスフェルト」の記事については、「ベアテ・クラルスフェルト」の概要を参照ください。
- キージンガーへの平手打ちのページへのリンク