ベアテの平手打ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 15:16 UTC 版)
「セルジュ・クラルスフェルト」の記事における「ベアテの平手打ち」の解説
1966年にドイツキリスト教民主同盟 (CDU) の党首にナチスで働いた経歴があるクルト・ゲオルク・キージンガーが選ばれると、仏独協力条約に基づいて創設された仏独青少年局 (OFAJ) のバイリンガル事務局を担当していたベアテがこれを公然と非難し、さらにセルジュとの連名で同様の記事を掲載。これを受けて仏独青少年局はベアテを解雇した。ドイツではナチスの戦争犯罪の裁判に対する国民の関心が薄れていたが、クラルスフェルト夫妻は意識啓発のための活動を続けた。1968年4月2日、ベアテはベルリンのCDU党大会でキージンガーの演説を遮り、「キージンガーはナチだ、辞任しろ」と叫び、警備員に連れ出された。さらに同年11月7日のCDU党大会ではキージンガーに平手打ちを食らわせ、逮捕された。禁錮刑1年を言い渡されたが、控訴審で執行猶予付き4か月に減刑された。 実際、ヴィシー政府が積極的にホロコーストに加担した事実はフランスでは1970年代まで隠蔽されていた。英雄的なレジスタンスの歴史だけが絶対視されていたからであり、一方で反ユダヤ主義は勢いを増していた。こうした現状を打破すべくクラルスフェルト夫妻は闘い続け、ベアテの平手打ちはその第一歩であった。世界中のメディアがこの事件を大々的に取り上げ、ベアテが反ユダヤ主義との闘いのシンボルとなったからである。ベアテは、「かつてのナチが党首になるなど許し難いことだ。平手打ちを食らわせたのはこのことをはっきり示すためであり、全世界に対してこれは恥ずべきことだ、許されないことだと言うドイツ人がいることを知ってもらうためである」と語っている。
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