教師から新聞記者へ
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早稲田大学を卒業後、広島県立広島高等女学校(現在の広島県立広島皆実高等学校)で英語教師となるが、1904年(明治37年)に茨城県立竜ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)で教鞭を執り、1907年(昭和40年)に母校・早稲田大学に清国留学生部講師として戻った。しかし同部の規模縮小により、翌1908年(明治41年)4月に職を辞することになった。失職した青峰は、当時新聞記者をしていた土肥春曙の名で仕事をしていたが、その春曙が国民新聞の吉野左衛門に青峰を紹介し、入社を頼んだ。左衛門はちょうど記者を一人求めていたところだと言って青峰の採用を決め、当時小説や文芸作品を掲載する「国民文学」欄の創設準備中で、その主宰者に内定していた高浜虚子に会いに行くように言った。 こうして青峰は1908年(明治41年)9月20日に国民新聞社に入社、10月1日から始まった「国民文学」の編集部員として虚子の部下となった。この国民新聞社には、後に俳句雑誌『土上』を主宰する篠原温亭が社会部編集主任として在籍していた。左衛門と温亭も俳人であり、国民新聞社は「俳人内閣」の様相を呈していたが、1910年(昭和43年)9月に虚子は俳句雑誌『ホトトギス』の仕事に専念するために退職、左衛門と温亭は俳句界から離れていき、国民文学部は青峰一人となった。こうして青峰は虚子の後を継ぎ、国民文学部長として一人で文芸欄を担当し、虚子に頼まれ『ホトトギス』に文章を寄稿することで虚子を支えるようになった。 そしてある日、青峰が虚子宅を訪ねると暇な時に手伝ってほしいと頼まれ、新聞社の仕事の傍ら『ホトトギス』の編集を手伝うこととなった。ただ、青峰自身は手伝い始めた初期は、まだ俳句に関して門外漢だったと述べている。1913年(大正2年)、8月号の『ホトトギス』に虚子は 「 第十五巻以後、私は独力でホトトギスを経営すると口癖のやうに申しましたが、併しその間に在つて常に私を補翼してくだすつた貴下のあることは忘れることの出来ない事であります。貴下は今の世に珍らしいほど隠れたる努力を惜しまない人であります。(中略)併しその青峰といふ名は、新たに留守の門に打ちつけられた生々しい表札ではなくて已に私の表札と共に同じやうに古び色づいている―殊に過去二年間の悪闘の風雨に同じやうに黒ずんでをる―表札であることを私は愛読者諸君に諒会していただきたいのであります。 」 と書いて青峰を読者に紹介、青峰に編集一切を任せる旨を表明した(同文中の「貴下」が青峰を指している)。「過去二年間の悪闘」とは、虚子自身の病との闘いと新傾向俳句との闘いを意味しており、『ホトトギス』史上苦しい時期に青峰は編集を任されたことになる。この頃青峰は、国民新聞社の文芸欄の担当もしており、夜や日曜日に出勤して『ホトトギス』の仕事をすることが少なくなかった。虚子から編集一切を任されるようになってからは、「消息」欄・「発行所句会記録」・「吟行記」・随筆等の穴埋め的な文章を多数書いている。青峰らしい企画を『ホトトギス』で取り行うこともあり、1917年(大正6年)の新年号では与謝野晶子や平福百穂らによる「専門家に非ざる人の俳句談」を載せた。 俳句に関しては1914年(大正3年)の『ホトトギス』5月号に 「 行春や 鐘建立の 事すみて 」 が掲載されて以降、翌1915年(大正4年)の『ホトトギス』12月号まで断続的に1、2句程度載っている。 1914年(大正3年)12月11日、高浜虚子は『ホトトギス』12月号の誌上で、読者に種々の便宜を図ることと、運営資金とするため、原稿用紙や俳諧絵はがき等の販売、俳句や絵画の依頼を斡旋する「俳諧堂」を設立することを広告した。この広告を出した翌12日には注文が入り、俳諧堂は期待以上の繁盛となった。当時のホトトギス社は市谷船河原町に発行所を構え、虚子は留守番係として下山霜山を雇い、自身は神奈川県鎌倉郡鎌倉町(現在の神奈川県鎌倉市)から発行所に通う生活をしていた。俳諧堂の経営は青峰と霜山が担当した。翌1915年(大正4年)4月18日、青峰は再上京してホトトギス社を訪れた原石鼎の応対をしている。石鼎は4年前にホトトギス社への入社を懇願するも断られ、奈良県吉野で次兄の医業の手伝いの傍ら『ホトトギス』の雑詠に投稿して名を挙げ、今般再び雇ってもらおうとホトトギス社を訪れたのであった。 1920年(大正9年)、青峰は『ホトトギス』の編集の仕事を下りる。退職について『ホトトギス』大正9年2月号上には、虚子名義で「一身上の都合」と触れられているのみである。細井啓司は、1920年(大正9年)1月22日に国民新聞で虚子の有力な支持者であった吉野左衛門が死去していることと、直前の1919年(大正8年)の『ホトトギス』12月号の消息欄に退社を連想させるような記述を青峰がしていないことから、国民新聞社の虚子支持者の穴埋めのために青峰がホトトギス社を退いたのではないか、と推論している。
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