教師から新聞記者へとは? わかりやすく解説

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教師から新聞記者へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 08:39 UTC 版)

嶋田青峰」の記事における「教師から新聞記者へ」の解説

早稲田大学卒業後、広島県立広島高等女学校現在の広島県立広島皆実高等学校)で英語教師となるが、1904年明治37年)に茨城県竜ヶ崎中学校現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)で教鞭執り1907年昭和40年)に母校早稲田大学清国留学生講師として戻った。しかし同部の規模縮小により、翌1908年明治41年4月に職を辞することになった失職した青峰は、当時新聞記者をしていた土肥春曙の名で仕事をしていたが、その春曙国民新聞吉野左衛門青峰紹介し入社頼んだ左衛門はちょう記者一人求めていたところだと言って青峰採用決め当時小説文芸作品掲載する国民文学創設準備中で、その主宰者内定していた高浜虚子会いに行くように言った。 こうして青峰1908年明治41年9月20日国民新聞社入社10月1日から始まった国民文学」の編集部員として虚子部下となった。この国民新聞社には、後に俳句雑誌土上』を主宰する篠原温亭社会部編集主任として在籍していた。左衛門と温亭も俳人であり、国民新聞社は「俳人内閣」の様相呈していたが、1910年昭和43年9月虚子俳句雑誌ホトトギス』の仕事専念するために退職左衛門と温亭は俳句界から離れていき、国民文学部は青峰一人となった。こうして青峰虚子の後を継ぎ国民文学部長として一人文芸担当し虚子頼まれホトトギス』に文章寄稿することで虚子支えようになった。 そしてある日青峰虚子宅を訪ねると暇な時に手伝ってほしいと頼まれ新聞社仕事傍らホトトギス』の編集手伝うこととなった。ただ、青峰自身手伝い始めた初期は、まだ俳句に関して門外漢だったと述べている。1913年大正2年)、8月号の『ホトトギス』に虚子は 「 第十五巻以後、私は独力でホトトギス経営する口癖のやうに申しましたが、併しその間に在つて常に私を補翼してくだすつた貴下のあることは忘れることの出来ないであります貴下今の世に珍らしいほど隠れた努力を惜しまないであります。(中略併しその青峰といふ名は、新たに留守の門に打ちつけられた生々しい表札ではなくて已に私の表札と共に同じやうに古び色づいている―殊に過去年間の悪闘の風雨に同じやうに黒ずんでをる―表札であることを私は愛読者諸君に諒会していただきたいであります。 」 と書いて青峰読者紹介青峰編集一切任せる旨を表明した同文中の「貴下」が青峰指している)。「過去年間の悪闘」とは、虚子自身病との闘い新傾向俳句との闘い意味しており、『ホトトギス史上苦し時期青峰編集任されたことになる。この頃青峰は、国民新聞社文芸担当もしており、夜や日曜日出勤してホトトギス』の仕事をすることが少なくなかった虚子から編集一切任されるようになってからは、「消息・「発行所句会記録」・「吟行記」・随筆等の穴埋め的な文章多数書いている。青峰らしい企画を『ホトトギス』で取り行うこともあり、1917年大正6年)の新年号では与謝野晶子平福百穂らによる「専門家に非ざる人の俳句談」を載せた俳句に関して1914年大正3年)の『ホトトギス5月号に 「 行春や 鐘建立の 事すみて 」 が掲載され以降、翌1915年大正4年)の『ホトトギス12月号まで断続的に1、2程度載っている。 1914年大正3年12月11日高浜虚子は『ホトトギス12月号の誌上で、読者種々の便宜を図ることと、運営資金とするため、原稿用紙俳諧絵はがき等の販売俳句絵画依頼斡旋する俳諧堂」を設立することを広告した。この広告出した12日には注文入り俳諧堂は期待上の繁盛となった当時ホトトギス社市谷船河原町発行所構え虚子留守番係として下山山を雇い自身神奈川県鎌倉郡鎌倉町現在の神奈川県鎌倉市)から発行所に通う生活をしていた。俳諧堂の経営青峰山が担当した。翌1915年大正4年4月18日青峰再上京してホトトギス社訪れた原石鼎応対をしている。石鼎4年前にホトトギス社への入社懇願する断られ奈良県吉野次兄医業の手伝い傍らホトトギス』の雑詠投稿して名を挙げ今般再び雇ってもらおうホトトギス社訪れたであった1920年大正9年)、青峰は『ホトトギス』の編集仕事下りる退職について『ホトトギス大正9年2月号上には、虚子名義で「一身上の都合」と触れられているのみである。細井啓司は、1920年大正9年1月22日国民新聞虚子有力な支持者であった吉野左衛門死去していることと、直前1919年大正8年)の『ホトトギス12月号の消息退社連想させるような記述青峰がしていないことから、国民新聞社虚子支持者穴埋めのために青峰ホトトギス社退いたではないか、と推論している。

※この「教師から新聞記者へ」の解説は、「嶋田青峰」の解説の一部です。
「教師から新聞記者へ」を含む「嶋田青峰」の記事については、「嶋田青峰」の概要を参照ください。

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