病との闘い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 04:52 UTC 版)
一方、その体質から病気にかかることも多く、1985年(昭和60年)4月7日・4月14日、2008年(平成20年)6月29日・7月6日(腰部脊柱管狭窄症の手術・療養のため)、2010年(平成22年)3月7日・3月14日(肺炎に伴う入院)、2014年(平成26年)5月11日 - 6月1日(肋骨骨折)、2015年(平成27年)1月25日・2月1日(インフルエンザによる休養)、同年7月12日 - 9月6日(手術後の体調不良)分の出演を見送っている。 1973年(昭和48年)に脱腸と2001年(平成13年)に急性腹膜炎と2度開腹手術を受けているが、いずれも番組を休むことはなかった。1973年(昭和48年)の手術直後の神奈川県伊勢原市での公開録画には、体調が優れない中で看護師同行の上で収録をこなした(この伊勢原での公録の模様を放送した『笑点』は40.5%の歴代最高視聴率をマーク)。2001年(平成13年)2月11日放送では手術直後の収録で、積み上げた座布団への昇降が困難だということで、歌丸は座布団の後ろに座ってその前に座布団を積み上げるという方式を取って臨んでいる。2006年に腰部脊柱管狭窄症の手術を行った際は収録がない時期であり、2012年に腰部脊柱管狭窄症の再手術の際も、収録のない時期に行った。 その後、2009年(平成21年)には肺気腫に伴う感染増悪で入院。50年以上に亘る喫煙の結果慢性閉塞性肺疾患と診断される。このときも笑点の収録のない間の入院で済んだため番組を休演することはなかった。しかし2010年(平成22年)には、今度は軽い肺炎を起こし入院。当初愛知県みよし市での地方収録の前日には退院の見通しであったが、大事を取って延期されることになった(同年3月2日に行われた6代目円楽襲名披露パーティーは、一時退院の上で会見に臨んだ)ため、同年3月7日、3月14日放送分の『笑点』は、それぞれ木久扇と好楽が代理司会をする形で休演。同日放送分の『笑点Jr.』も木久扇が代理でナビゲーターをする形で休んだ。 2014年(平成26年)3月29日、慢性閉塞性肺疾患の悪化で入院。5月1日に高座復帰したが、帯状疱疹で再入院し、5月22日に退院。5月31日、復帰後初となる『笑点』の収録を行った。6月23日の紀伊國屋ホールでの公演には車椅子で楽屋入りし、合間に酸素吸入器を付けるなど万全な体調ではなかったが、無事に高座をこなした。この様子は6月25日にテレビ朝日『ワイド!スクランブル』のコーナー「情熱人」で放映された。同コーナー内での映画監督の井筒和幸との対談では、今回の病気で引退を考えていたものの、妻の冨士子から「あなたが落語辞めたら張り合いがなくなる」と説得されて、現役続行を決めたことも語った。 2015年6月1日、背部褥瘡(はいぶじょくそう)の手術のため入院。同月9日に退院していたが、その後、体調不良となり、入院・休養することになる。『笑点』の収録などの仕事も休む。22日、病名が腸閉塞だったことがわかる。同年7月11日、退院。8月8日の『笑点』収録で仕事に復帰。高座にも同月11日からの東京・国立演芸場中席で復帰した。入院生活により脚の筋肉が落ち正座をするのが大変苦しいとして、見台を使用したものの、当日の“トリ”として登場し約1時間の高座を務めた。8月23日、日本テレビ系『24時間テレビ38 愛は地球を救う』内の「チャリティー笑点」に司会として登場。腸閉塞からの仕事復帰後では初めての生番組出演となった。9月13日、『笑点』復帰の回が放送される。 2016年4月30日、同年5月に『笑点』が放送開始50周年を迎えることを機に、5月22日の放送を以て司会者を勇退することを発表し、番組初の終身名誉司会に就任することとなった。
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