病がちになる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 09:31 UTC 版)
元弘2年/正慶元年(1332年)3月には後醍醐天皇が隠岐に流罪となった。 それに伴い、同年5月20日、禧子は新たに立てられた持明院統の光厳天皇より女院号を宣下されて「礼成門院」と称し、追って同年8月30日には出家した(『女院小伝』)。 禧子と直接の関係があるかは不明だが、元弘の乱では、西園寺家の家人(家来)である平野将監入道という武将が、後醍醐天皇勢力に付き、楠木正成の同僚として参戦した。平野は上赤坂城の戦いなどで活躍しており、後醍醐勢力勝利への要因の一つになっている。 『増鏡』「久米のさら山」によれば、禧子は後醍醐と離れ離れになったことを深く思い嘆いたという。礼成門院の院号宣下なども他人事のように聞き流して喜ばず、かつて作ったお産のための修法の壇なども壊してしまい、薬湯を呑むことさえ少なくなってしまった。隠岐にいる後醍醐から文が届くこともあったようだが、直に会えないのが心苦しかったという。こうして、心身ともに次第に体調を悪くしていったと描かれる。『太平記』でも病気説は取られており(ただし月日に錯誤がある)、日本史研究者の森茂暁も病が禧子の死の原因になったことについて断定的に記している。 おほんさまかへさせ給て後、人の琴を引ければよませ給ける(訳:御出家姿になられて後、側仕えの者が箏を弾いていたので、お詠みになった歌)人しれず 心をとめし 松風の 声をきくにも ぬるゝ袖哉(大意:出家姿になったのだから、この世への未練は絶ち切らないといけないはずなのですが、人知れず心を込めてあの人を待つところに、松風のような箏の音を聴き――よく琵琶を奏でていたあの人の声が思い出されて、思わず涙で袖が濡れてしまいました) —後京極院、『新千載和歌集』雑中・1895
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