病と快復、そして晩年とは? わかりやすく解説

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病と快復、そして晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 09:17 UTC 版)

オリガ・スペシフツェワ」の記事における「病と快復、そして晩年」の解説

好評受けてオーストラリアでの公演続行中、シドニーでスペシフツェワの言動変調きたしたリハーサルを突然中断したり、真夜中に稽古すると言って外に出て行ったりという行動見られるようになった舞台の上で気が抜けたような状態になってしまい、相手役支えて幕が下りるまで何とか持ちこたえさせたことさえあった。 スペシフツェワの病状それ以上悪化せずに済みバレエ団パリに戻ることができた。その後1939年テアトロ・コロン引退公演行った同年戦時色濃くなってきたヨーロッパ逃れてニューヨーク移り住んだ。このとき、スペシフツェワのかたわらにはレナード・ブラウンというアメリカの実業家がいた。ブラウンはスペシフツェワの崇拝者あり、かなり前から夫婦同然に暮らしていたという。スペシフツェワはアメリカになじめなかったようで、「パリに連れて帰ってくれ」などと主張繰り返した。彼女の言動日増しに常さ増していき、「誰かが外で見張っている」、「陰謀企てられている」などと発言するまでになったブラウン不安定な言動繰り返すスペシフツェワを支え当時ニューヨークにいたアントン・ドーリン(『ジゼル』で彼女の相手役務めていた)も彼女を援助した。しかし、ブラウン急死し彼の遺産親族がすべて取り上げたブラウン同じく彼女を支えていたドーリンメキシコ滞在していたため、スペシフツェワは孤独のうちに取り残された。スペシフツェワは「私はオペラ座プリマバレリーナよ!そばへ来ないで!」と叫ぶのみであったという。 1943年、スペシフツェワは精神病院収容された。彼女の入院知ったドーリン驚き精神病院ではなく他の介護施設療養させよう考えたものの、それには高額な費用必要だったドーリンは彼女を「眠れるバレリーナ」と呼び、何とか退院させよう尽力続けた。 スペシフツェワは20年間にわたって隔離され退院叶ったのは1963年のことであった退院した頃のスペシフツェワは、不安定な言動がすっかり治まって平常心取り戻していた。 退院後のスペシフツェワは、ドーリンなどの計らいによって作家レフ・トルストイ四女アレクサンドラru:Толстая, Александра Львовна)がニューヨーク州ロックランド郡ヴァレー・コテージ(英語版)で設立したロシア人移住地、トルストイ財団ファームで暮らすことになったアレクサンドラとスペシフツェワは性格がよく合い、その地で平穏な日々過ごした。スペシフツェワは1991年95歳でこの世去った遺骸ナニュエットにあるロシア正教会墓地埋葬された。

※この「病と快復、そして晩年」の解説は、「オリガ・スペシフツェワ」の解説の一部です。
「病と快復、そして晩年」を含む「オリガ・スペシフツェワ」の記事については、「オリガ・スペシフツェワ」の概要を参照ください。

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