再上京
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天保10年(1839年)礪山に大津義仲寺の松尾芭蕉150回忌引上会式に招かれたのを機に放浪を再開し、京都、大坂を往復後、天保11年(1840年)4月卓大と阿波国、7月金刀比羅宮、別子銅山、8月備前国由加山を巡り、9月帰京した。 天保12年(1841年)牧岡天来から届いた質問状に返信したところ、天来はこの返信をもとに、梅室派の指し合い、去り嫌い、式目軽視を論難する『俳諧七草』を出版した。梅室は『梅林茶談』、門下は『霽々志』『誹諧春の田』『磯の波』を刊行し、天来派の因習性を非難して応戦したが、天保13年(1842年)1月安芸国雅素亭和切が『葉分の風』で両者の論争を非難し、収束した。 天保13年(1842年)8月伊賀国願成寺、文化14年(1843年)9月大坂、10月大津義仲寺で芭蕉遠忌を営み、弘化2年(1845年)伊勢国津梅、伊勢神宮、四日市、嘉永3年(1850年)辰丸と大坂、堺を旅した。 嘉永4年(1851年)二条家から花下宗匠7世襲名の打診があり、石室、寺島杜蓼を上京させ、4月15日の免状を得た。
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再上京
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1907年(明治40年)10月、山梨県会議員選挙に東八代郡から立候補し、当選した。しかし、12月になり県会選挙無効の訴訟が起きた。投票用紙を再検査した甲府裁判所は東八代郡選挙区の無効の判決を下した。このため補欠選挙が行われたが、堀内は立候補をとりやめた。 1908年(明治41年)、上黒駒郵便局長の職も辞し、再上京した。報知新聞に経済部記者として入社。この頃、同じ山梨県出身で甲州財閥の一人として鉄道経営を手広く行っていた根津嘉一郎と知遇を得た。また國民新聞の徳富蘇峰ともこの頃より交遊を持つ。
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