業界入り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 16:30 UTC 版)
1955年に再上京し、友人の紹介で写譜屋を開始。暮れに三木鶏郎音楽事務所の事務員となる。寺での修行もあり、掃除が得意だったことが鶏郎に気に入られたという。 1956年、鶏郎が有限会社冗談工房を発足(社長・永六輔)。専務職に就くが実質業務は鶏郎のマネージャーだった。経理ミスが発覚し、マネージャーをクビとなる(永六輔は「野坂の使い込みがひどくて会社が傾いた」と発言しており、野坂自身も使い込みの事実を認め、警察の追及を恐れて使い込みの公訴時効を六法全書で調べたことがあると述べている)。この年、大学を中退する。 1957年、27歳でテレビ工房の責任者になり、阿木由起夫の筆名で放送作家としてコントを量産。いずみたくと組んでCMソング作詞家として活躍。作詞家としては「おもちゃのチャチャチャ」の第5回日本レコード大賞童謡賞の受賞、放送局初のPRソング「OBCソング」を作詞している。 小林信彦編集の雑誌『ヒッチコックマガジン』の表紙のモデルもつとめた。この作家デビュー前の時期、雑誌『奇譚クラブ』に「戸山一彦」名義で寄稿していたことが、元編集者・飯田豊一により証言されている。 60年安保闘争当時、野末陳平と漫才師コンビ「ワセダ中退・落第(わせだちゅうたい・らくだい)」を組んで一時期活動していた。
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