籾山書店
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次いで、日本橋塩魚鰹節問屋の「籾山家」に入籍、籾山氏の女婿となった。この頃、籾山庭後と名乗るようになる。明治38年(1905年)高浜虚子から俳書堂を譲り受け、東京市築地本願寺前附近にて「籾山書店」を経営。内藤鳴雪や高浜虚子、河東碧梧桐の俳書にとどまらず「胡蝶本」の名で愛書家に珍重される森鴎外や夏目漱石、谷崎潤一郎、島崎藤村、萩原朔太郎、泉鏡花などの文芸出世作を次々と発表。西園寺公望の雨声会にも影響を与える大出版社となる。 明治43年(1910年)春に『三田文学』の編纂人である永井荷風と初めて面会。三田文学の販売を任され、そして営利を度外視して三田文学を俗化から守ることを要請され、受諾した。荷風を知ると、大正5年(1916年)に荷風との2人雑誌『文明 (雑誌)』を創刊。井上啞々らも加わり、趣味的、高踏的な雑誌となるが、編集方針に関する意見が合わず、大正6年(1917年)末で休刊となる。 その後、籾山は満を持して『俳諧雑誌』を創刊。東京丸の内三菱二十一号館内の俳書堂に編集部を置き、徳田秋聲によれば、尾崎紅葉を中心にした人々が作った社の名前であったという。俳句綜合誌の先駆的雑誌であり、内藤鳴雪、原月舟、前田普羅、飯田蛇笏、大場白水郎、久保田万太郎、永井荷風、松根東洋城が執筆、井上啞々が編集に当たった。 句の心は東京下町風の懐古趣味的旧派を堅持し、格調の芷しい俳句しか作らず、「即興的な抒情詩、抒情的な印象詩」というまったく特殊な存在であった。雪中庵雀志門から出て12世・雪中庵を継いだ増田竜雨は、旧派に属しながら旧套になずむことを嫌い、『俳諧雑誌』系の俳人となった代表的な人物である。 『俳諧雑誌』は当時、新傾向派の『ホトトギス』と双璧を成した。
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