スペインによる植民地化の動きとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > スペインによる植民地化の動きの意味・解説 

スペインによる植民地化の動き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:14 UTC 版)

アラスカの歴史」の記事における「スペインによる植民地化の動き」の解説

ロシア領土的拡大恐れたスペインカルロス3世1774年から1791年にかけて繰り返しメキシコから探検隊送ったサンティアゴ号に乗った大尉ブルーノ・デ・ヘゼタ率い第二次探検90人は北西太平洋スペインのものにするべく1775年3月16日サンブラスを出航した当初ユアン・マヌエル・デ・アヤラの指揮下に入っていた付き添いのヘゼタは僚船セニョーラ号を提供した全長11m、乗組員16人のこのスクーナー船海岸線予備調査地図作成、それに前回航海船体大きなサンディアゴ号が近づけなかった場所で陸地発見する任務帯びていた。こうして準備整い、この探検隊訪れたメキシコ以北陸地スペインがその領有権正式に主張できるようになったのである。 二隻の船はワシントン州Point Grenvilleまで共に北上した。この地の名はHezetaがキノート族からの襲撃受けて名づけたものである1775年7月29日夕方、二隻は別々に別れて進むことにした。サンティアゴ号は現在のワシントン州カナダ境界目指し進んだ一方副官ファン・デ・フーカ舵を取っていたセニョーラ号は指令どおり海岸線近づき、ついに8月15日北緯59°のシトカ湾に入ったスペインはそこで自らの 主権を示すために多くの山や入り江に名前をつけたが、サン・ジャシント名づけた山は三年後にイギリス探検家ジェームス・クックによってエッジカンブと改名されてしまった。 航海間中、二隻の乗組員たちは食糧不足壊血病などの困難に苦しんだ9月8日、二隻は再び行動を共にし、サンブラスへの帰路着いた1791年スペイン国王はアレサンドロ・マラスピナに、北米北海岸にあるとされる北西航路」を調査するよう命じた。彼はアラスカ沿岸プリンスウィリアム湾まで調査したヤクタット湾では、探検隊トリンギット族接触したスペイン学者トリンギット族についての社会言語経済兵法埋葬法についての研究残している。同行した芸術家のトマス・ド・スリアとジョゼ・カルデロは部族肖像画日常生活描いた作品残している。ヤクタト湾とアイシー湾 (Icy Bay) の間にある氷河は後にマラスピナ氷河名づけられた。 やがて北太平洋における競争が彼らにとって重い負担を強いることを知ったスペインは、1819年全て引き上げて領有権放棄した今日では、マラスピナ氷河バルディーズという地名スペイン面影が残るのみである。

※この「スペインによる植民地化の動き」の解説は、「アラスカの歴史」の解説の一部です。
「スペインによる植民地化の動き」を含む「アラスカの歴史」の記事については、「アラスカの歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「スペインによる植民地化の動き」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「スペインによる植民地化の動き」の関連用語

スペインによる植民地化の動きのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



スペインによる植民地化の動きのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのアラスカの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS