スペインによる植民地化の動き
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「アラスカの歴史」の記事における「スペインによる植民地化の動き」の解説
ロシアの領土的拡大を恐れたスペインのカルロス3世は1774年から1791年にかけて繰り返しメキシコから探検隊を送った。サンティアゴ号に乗った大尉ブルーノ・デ・ヘゼタ率いる第二次探検隊90人は北西太平洋をスペインのものにするべく1775年3月16日サンブラスを出航した。当初ユアン・マヌエル・デ・アヤラの指揮下に入っていた付き添いのヘゼタは僚船セニョーラ号を提供した。全長11m、乗組員16人のこのスクーナー船は海岸線の予備調査と地図作成、それに前回の航海で船体の大きなサンディアゴ号が近づけなかった場所で陸地発見する任務を帯びていた。こうして準備が整い、この探検隊が訪れたメキシコ以北の陸地はスペインがその領有権を正式に主張できるようになったのである。 二隻の船はワシントン州のPoint Grenvilleまで共に北上した。この地の名はHezetaがキノート族からの襲撃を受けて名づけたものである。1775年7月29日の夕方、二隻は別々に別れて進むことにした。サンティアゴ号は現在のワシントン州とカナダの境界を目指して進んだ。一方副官ファン・デ・フーカが舵を取っていたセニョーラ号は指令どおり海岸線に近づき、ついに8月15日、北緯59°のシトカ湾に入った。スペインはそこで自らの 主権を示すために多くの山や入り江に名前をつけたが、サン・ジャシントと名づけた山は三年後にイギリスの探検家ジェームス・クックによってエッジカンブと改名されてしまった。 航海の間中、二隻の乗組員たちは食糧不足や壊血病などの困難に苦しんだ。9月8日、二隻は再び行動を共にし、サンブラスへの帰路に着いた。 1791年、スペイン国王はアレサンドロ・マラスピナに、北米の北海岸にあるとされる「北西航路」を調査するよう命じた。彼はアラスカ沿岸をプリンスウィリアム湾まで調査した。ヤクタット湾では、探検隊はトリンギット族に接触した。スペインの学者はトリンギット族についての社会、言語、経済、兵法、埋葬法についての研究を残している。同行した芸術家のトマス・ド・スリアとジョゼ・カルデロは部族の肖像画と日常生活を描いた作品を残している。ヤクタト湾とアイシー湾 (Icy Bay) の間にある氷河は後にマラスピナ氷河と名づけられた。 やがて北太平洋における競争が彼らにとって重い負担を強いることを知ったスペインは、1819年に全てを引き上げて領有権を放棄した。今日では、マラスピナ氷河とバルディーズという地名にスペインの面影が残るのみである。
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