スペインによる拿捕、そして沈没とは? わかりやすく解説

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スペインによる拿捕、そして沈没(1591年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/27 14:23 UTC 版)

リヴェンジ (ガレオン)」の記事における「スペインによる拿捕、そして沈没(1591年)」の解説

詳細は「フローレス島戦い (1591)(英語版)」を参照 リヴェンジ号は輝かしく数奇な最期迎え伝説となったジョン・ホーキンスイスパニア海軍アルマダの海戦受けた損害回復するのを防ぐため、スペイン帝国アメリカから来る財宝供給を、イスパニア拿捕特化した設計の船でもって定期的に監視する方法妨害するよう提案した1591年夏、リヴェンジ号はリチャード・グレンビル(英語版)の指揮の下、正にこの監視任務に就いていた。 イスパニア側はアロンソ・デ・バサン(英語版率いる約53隻の艦隊急行させ、 マルティン・ベルテンド(英語版)とマルコス・デ・アランブルがその指揮についた。その目的は、アゾレス諸島北部フローレス島においてイングランド艦隊拿捕することにあった1591年8月下旬彼等目標艦隊遭遇した。この時イングランド艦隊船体修理にあわせ、伝染性熱病蔓延していたため船員下船上陸させていた。艦船大半海上への退避はかったが、グレンビル上陸していた船員達が戻ってくるのを待った出発時、彼等コルボ島西側を通る航路を取ることもできたはずだが、しかしグレンビル東側から向かってくるイスパニア艦隊正面から突破する道を選んだ戦端開かれたのは8月31日終わりであった圧倒的戦力による速攻リヴェンジ号を襲ったが、彼等果敢に反攻試みた巧み戦術でもって敵方砲火かいくぐることには何度成功したものの彼等は完全に包囲され、更に敵艦の数は徐々に増えつつあった。イスパニア船を1隻打ち倒しても他の1隻が入れ替わりやってくるだけであり、この不利な戦況は実に15時間ほども続いたイスパニア側はリヴェンジ号へ白兵戦仕掛けたが、撃退された。相手の3倍の大きさ船体をもつサン・フェリーペ号にアランブルのサン・クリストーバル号を伴走させ、リヴェンジ号に横付けしてイスパニア兵を斬り込ませようとしたのである兵士乗り込ませたあと、サン・フェリーペ号はリヴェンジ号から突き放されてしまった。突入部隊の7人は戦死し、3人がサン・ベルナーベ号に救助されたが、この船は直後リヴェンジ号と乱戦になった。またこの夜の事件イスパニア側はガレオン船アセンション号およびその他の小型船舶をも失ったが、これは自艦隊同士での衝突事故原因である。一方サン・フェリーペ号の援護当たっていたサン・クリストーバル号は、リヴェンジ号の船尾楼船体ぶつけた程なくしてベルテンドのサン・ベルナーベ号がイングランド側へ集中砲火浴びせ、これにより多数死傷者出ただけでなく船体にも深刻な損害生じたイングランド側の船員後部甲板銃眼から反撃行った9月1日明け方時点で、リヴェンジ号は複数マスト砲撃により折られ船倉が6フィート深さまで浸水、約250人いた乗船員のうち残存戦力は僅か16名という状態であったリヴェンジ号はなおも2隻のガレオン船サン・ベルナーベ・サン・クリストーバルと乱戦続けリヴェンジ号の船首とサン・クリストーバル号が激突したため双方大破した。この時サン・ベルナーベ号は、部隊を斬り込ませることでイングランド側の射撃手達が防衛のため持ち場離れざるを得ないように仕向ける、という戦術を採った。これはまさにリヴェンジ号の命運掌握せんとするものであったアルフレッド・テニスンの詩には、グレンビル最後にリヴェンジ号を沈めるよう命じた様を見て取れる。 さはれ今危きは吾等が艦の光景かな。砲彈破裂絶望のもがきに憐れなる一百戰士四十は既に仆れ、殘れるもの半ば傷きて、終生不具となれり。船艙に於ける病兵多くは既に死して固く冷やかなり。 而して斧は碎け屈し火藥盡きマスト帆綱舷側に算を亂せり。 然れども尚ほリチャード卿は、昂然たる英國を以て叫ぶらく、 「我等全日全夜、斯樣の戰のたえて世に有るまじきまでに激しく戰へり! 我が戦士等よ、我等偉大な光榮得たり一日の長短、地の海陸我等死に於て何かあらむ?! 砲術長(マスターガンナー)、我が艦を沈め兩斷して爆沈せよ! 而して戰神の手捧げよ斷じてスペインの手與ふ勿れ!」 麾下の兵達はこの命令承服せず、生存者達は投降することで合意し彼等救助されることになった。身の安全の保証を得、数十イスパニア船が包囲解除した後、最終的にリヴェンジ号は投降したグレンビル深手負っていたため、イスパニア船に乗せられ2日後死亡した拿捕されたものの深刻な損傷受けていたリヴェンジ号はついにイスパニア到達することなく、しかし70人のイスパニア兵とイングランド人捕虜とを獲て、多数イスパニア船を道連れにアゾーレスの大嵐へと消えた満身創痍リヴェンジ号はテルセイラ島ほど近い島で座礁し、完全に壊れてしまったのである1592年から1593年にかけて、イスパニアリヴェンジ号の銃砲14点沈没地点発見している。一部の砲は潮流流され数年経ってから陸に流れ着いた。遅いものでは1625年頃にもリヴェンジ号の武装類が引き揚げられた記録がある。

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