追放令後とは? わかりやすく解説

追放令後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:55 UTC 版)

バテレン追放令」の記事における「追放令後」の解説

1587年禁令受けたイエズス会宣教師たち平戸集結して以後公然布教活動控えた南蛮貿易もたらす実利重視した秀吉京都にあった教会南蛮寺)を破却長崎公館教会堂接収し1592年文禄元年)には長崎イエズス会から奪還し直轄地にしたが、キリスト教そのものへのそれ以上強硬な禁教行っていない。1591年インド総督大使としてヴァリニャーノ提出され書簡西笑承兌秀吉のために起草)によると、三教神道儒教仏教)に見られる東アジア普遍性ヨーロッパ概念特殊性比較しながらキリスト教教義断罪した。秀吉ポルトガルとの貿易関係中断させることを恐れて勅令施行せず、1590年代にはキリスト教復権させるようになった勅令のとおり宣教師強制的に追放することができず、長崎ではイエズス会の力が継続し豊臣秀吉時折宣教師支援した追放令命じた当の秀吉勅令無視しイエズス会宣教師通訳ポルトガル商人との貿易仲介役として重用していた。1590年ガスパール・コエリョ対象的に秀吉信任得られアレッサンドロ・ヴァリニャーノ2度目来日許されたが、秀吉が自らの追放令反してロザリオポルトガル服を着用し聚楽第黄金ホールぶらついていたと記述している。 スペイン国王フェリペ2世1586年には領土急激な拡大によっておきた慢性的な兵の不足、莫大な負債等によって新たな領土の拡大否定的になっており、領土防衛策に早くから舵を切っていた。 私には、より多く王国国家手に入れようとする野心駆られる理由はありません....私たちの主は、その善意によって、私が満足するほど、これらすべてのものを与えてくださってます。 — 1586年スペイン国王フェリペ2世 秀吉が明と朝鮮征服試みるのと並行して1591年原田孫七郎フィリピン守り手薄征服が容易と上奏1592年5月31日入貢服従勧告する秀吉からの国書フィリピン総督渡し1593年には原田喜右衛門フィリピン征服軍事的占領働きかけ秀吉フィリピン総督服従せねば征伐する宣戦布告ともとれる意思表明をしていたが、フィリピン占領計画実施されることは無かった1593年文禄2年)、フィリピン総督使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが平戸来着し、肥前名護屋城豊臣秀吉謁見豊臣秀次配慮前田玄以命じて京都南蛮寺跡地修道院建設されることになった翌年にはマニラから新たに3名の宣教師来て、京坂地方での布教活動活発化させ、信徒1万増やした前田秀以(玄以の子)や織田秀信寺沢広高大名クラスこの頃洗礼受けた秀吉キリスト教に対して態度硬化させるのはサン=フェリペ号事件以後のことであるが、事件発端とした弾圧からはイエズス会除外されており追放令空文化していた。 日本において、キリスト教実質的に禁じられるのは徳川家康の命による1614年慶長19年)のキリスト教禁止令以降のことになる。慶長18年1614年12月19日家康新たなバテレン追放令作成着手した幕府の重要文書を起草した臨済宗の僧で黒衣の宰相異名を持つ以心崇伝江戸呼び文案作成させ、翌日、これを承認秀忠送り捺印させた。その結果、「伴天連追放之文」ができあがった伴天連追放之文は排吉利丹文ともいう。「伴天連追放之文」の大半神道儒教仏教に関するもので、キリスト教統一され日本の宗教神道儒教仏教三教一致)の敵とし、キリスト教禁止するための神学的正当性示そうとした。言い回しなどは基本的な部分において施薬院全宗起草したバテレン追放令ならっている。徳川家康長崎京都にあった教会等の宗教施設破壊キリスト教徒日本各地散らばることになるが弾圧徹底されなかった。以心崇伝関与した紫衣事件では仏教を介して幕府天皇よりも上に立つことを公に示すことになった徳川秀忠元和2年1616年)に「二港制限令」、元和5年1619年)に改め禁教令出しキリスト教本格的な宗教弾圧キリスト教徒に対して仏教への強制改宗が行われた。キリスト教好意的弾圧乗り気無かった京都所司代板倉勝重に対して秀忠キリスト教徒火炙り直々に命じ元和5年1619年10月6日京都六条河原52名が処刑される京都の大殉教)、この52名には4人の子供が含まれ、さらに妊婦1人いた。元和8年1622年)には計55名を長崎西坂において処刑元和の大殉教)、中には3歳、4歳5歳7歳12歳の子供が含まれていた。 島原の乱後に出版された『吉利支丹御退治物語』には火炙りによる処刑成仏のためと処刑法に抗議するような記述はない。 火あぶりに、なるも。うしざき。車ざき、さかはりつけ。かやうのなんに、あふか。のそみの、かなふ成仏と心へて、いのちを、いとひ。かなしむもの、なきと、みえたり。あはれなる事共かな、ちゑのなきものハ。をのれが、みヽに聞入、心に、おもひ。さだめたる事をハ。かつて、ひるかへす事なし。たとへは、二三さいの、わらんべか。かヾみのうちの、かちを見てハ、まことの、かたちと思ひ水の中の月を、みてハ。ゑんこうが。てにとらんと、おもふ、おろかな心とひとしきもの也。ぐ人はみな、かくのごとし。げたうの法、まほうなるべし火あぶり」「牛裂き」「車裂き」「逆さ磔」にあうのは外道邪教のせいであると批判矛先キリスト教向けており、現代基準では野蛮な行為異教徒対す攻撃として正当化している。 島原の乱の後、寛永17年1640年)に幕府宗門改役設置寺請制度檀家制度)によって宗教弾圧強化されたが、その余波として神式の葬儀である神葬祭禁じられ仏式強制されるなど信仰の自由制限統制され宗教界全体影響及んだ寺請制度邪宗門発見目的とした宗教迫害制度であり、キリスト教だけでなく日蓮宗不受不施派にも狙い定め布施派か天台宗への強制改宗または刑罰を選ばさせた。宗教弾圧民間宗教新興宗教にまで及んだ。寺は寺請証文発行拒否することで、檀家宗門人別改帳から削除し無宿非人落とせ強力な権限背景に、檀家に対して経済的負担を強いることができた。 アメリカ合衆国の歴史ジョージ・エリソン初代宗門改役任じられ井上政重アドルフ・アイヒマン比較した

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