日本人奴隷の貿易とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 日本人奴隷の貿易の意味・解説 

日本人奴隷の貿易

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:06 UTC 版)

奴隷貿易」の記事における「日本人奴隷の貿易」の解説

ポルトガルの奴隷貿易#アジア人の奴隷」、「倭寇#奴隷貿易」、「性的奴隷」、および「からゆきさん」も参照 16世紀から17世紀にかけての日本は、大航海時代迎えて列強となったポルトガルスペインオランダイギリスなどヨーロッパ諸国から、東南アジアにおける重要な交易相手としてだけでなく植民地維持のための戦略拠点としても重視された。この時代日本室町から安土桃山時代乱世戦国時代にあたり漂着した外国船の保護契機として、海に面した各地諸大名渡来する外国船から火薬などを調達し大量の銀が海外流出していた(南蛮貿易)。日本へは絹織物、金、生糸中国の磁器ジャコウルバーブアラビアの馬、ベンガルの虎、孔雀インド高級な緋色の布、更紗フランドル時計、ヴェネチアガラスなどのヨーロッパ製品ポルトガルのワインレイピアなどが入り日本からの輸出品には硫黄、銀、海産物、刀、漆器、そして少数ではあるが日本人奴隷含まれていた。ポルトガル船の主要品目硝石含まれないが、古い家屋床下にある土から硝酸カリウム抽出する古土法、主にカイコの糞を使う培養法による硝石製造五箇山等の各地行われ国産化進んだ1514年ポルトガル人マラッカから中国貿易行って以来ポルトガル人初め日本上陸した翌年には、マラッカ中国日本の間で貿易始まった中国倭寇襲撃により、日本に対して禁輸措置とっていたため、日本では絹等の中国製品が不足していた。 当初日本との貿易全てのポルトガル人開かれていたが、1550年ポルトガル国王日本との貿易権利独占した以降年に一度一隻日本との貿易事業権利与えられ日本への航海のキャプテン・マジョールの称号事業を行うための資金不足した場合職権売却権利与えられた。船はゴア出航しマラッカ中国寄港した後、日本向けて出発した南蛮貿易で最も価値のある商品は、中国の絹と日本の銀であり、その銀は中国でさらに絹と交換された。 古来から日本戦場では戦利品一部として男女拉致していく「人取り」(乱妨取り)がしばしば行われていた。この時代に入ると、侵攻地域居住する非戦闘員対す拉致や、非戦闘員拉致自体目的とした侵攻恒常的に行われるようになっていたと考えられている。この時代大内氏尼子氏代る代る戦争をした毛利氏は、領内深く尼子氏侵入してきた際、居城非戦闘員である農民商人らを収容して尼子氏による乱妨取り備えた同種の記録はこの時代各地見られる乱妨取りされた人々中にはヨーロッパ商人中国人商人によって買い取られ東南アジアなどの海外に連れ出されたものも少なからずいたと考えられている。 九州薩摩大隅地方ではこの時代の少し前から、人々盛んに海外進出し貿易を行うようになっていた。この地域では、国外で捕虜とした人々日本に連れ帰って来航した外国商人奴隷として販売する事例見られる遣明船にも携わった西国大名である山口大内氏や、貿易都市である堺を掌握し細川氏継承する四国三好氏らも、捕虜とした人々外国商人売却していたと考えられている。九州南端位置する薩摩地方の港や、西の京都と呼ばれた山口や、遣明船貿易繁栄した堺の町では、これまでの明人加えてポルトガル商人活動早くから確認できる1537年スブリミス・デウスにおいて教皇パウロ3世異教徒奴隷とすることを無効だ宣言していたが、1560年代以降イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易日本におけるキリスト教宣教妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えるようになっていた。ポルトガル国王日本での奴隷貿易禁止法令発布を度々求めており、1571年には当時の王セバスティアン1世から日本人貧民海外売買禁止勅令発布させることに成功した1571年人身売買禁止までの南蛮貿易実態だが、1570年までに薩摩来航したポルトガル船は合計18隻、倭寇ジャンク船含めればそれ以上の数となる。実際に取引され奴隷数については議論の余地があるが、反ポルトガルプロパガンダ一環として奴隷数を誇張する傾向があるとされている。記録に残る中国人日本人奴隷少数で貴重であったことや、年間一隻程度しか来航しないポルトガル船の積荷硫黄、銀、海産物、刀、漆器等)の積載量奴隷積荷離す隔離区間移送中の奴隷食料与える等の輸送上の配慮から、ポルトガル人奴隷貿易売られ日本人奴隷数百程度考えられている。 戦国時代来航したポルトガル商人主従関係などにより一時的にでも自由でない労働者奴隷考えており、下人所従年季奉公人奴隷として訳していたとされる譜代の者とか譜代相伝呼ばれていた下人所従は、農業家庭労働使役され日本国内において習慣法売買対象となっていた。 ポルトガル語で「奴隷」という語は一般的に「エスクラーヴォ escravo」と表される日本ポルトガル人が「エスクラーヴォ」と呼ぶ人々には、中世日本社会存在した下人」、「所従」といった人々が当然含まれる。しかし、日本社会ではそれらと一線を画したと思われる年季奉公人」もまた、ポルトガル人理解では、同じカテゴリー属した。 — 日本史をゆく - 史料が語るとっておき42話、東京大学史料編纂所 (著)、 中公新書、2014/12/19、p77-8. ポルトガル人日本一般的な労働形態だった年季奉公人も不自由な労使関係から奴隷とみなすなど、多く日本人労働形態ポルトガル人基準では奴隷であり、誤訳上の複雑な研究課題とされてきた。ポルトガルでは不自由な労使関係主従関係奴隷理解することがあり、使用される傭兵独立した商人冒険家奴隷の名称で分類されることがあった。 (日本社会において)使用人奴隷地主仕え、ひどく崇拝する。なぜなら、どんな質の高い人でも使用人に不従順なところがあれば、殺してしまえと命令するからである。そのため使用人たち主人にとても従順で、主人と話すときは、たとえとても寒いときでも、いつも頭を下げてひれ伏している。 コスメ・デ・トーレス日本人主人使用人に対して生殺与奪の権力を行使することができるとして、ローマ法において主人奴隷に対して持つ権利 vitae necisque potestas を例証として使い日本における使用人を奴隷同一視した中世日本社会では、百姓納税間に合わない場合備えて自分他人保証人として差し出すことができたという。税金払わない場合、これらの保証売却される可能性があり、農民奴隷区別をいっそう困難にした。 1587年天正15年6月18日豊臣秀吉九州平定途上で、当時イエズス会布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョとの夕食後、重臣達の御前会議施薬院全宗寺社破壊奴隷貿易等を行っていると讒言をし高山右近棄教せまった殉教を選ぶと拒否されたため、コエリョ詰問した。翌6月19日キリスト教布教禁じる『吉利支丹伴天連追放令』(バテレン追放令)を発布したバテレン追放令奴隷貿易禁じたとされるが、実際に発布され6月19日付けバテレン追放令には人身売買批判する文が(6月18日付け覚書から)削除されており、追放令発布理由についても諸説ある。バテレン追放令後の1591年教皇グレゴリー14世はカトリック信者に対してフィリピン在住する奴隷解放後賠償金を払うよう命じ違反者破門する宣言、在フィリピン奴隷影響与えた。 デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本の文化宗教道徳的退廃に対して批判が行われている。 日本人には慾心と金銭執着はなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れかぶせているのを、ポルトガル人ヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助共訳雄松堂書店1969、p232-235 デ・サンデ天正遣欧使節記ポルトガル国王による奴隷売買禁止勅令後も、人目を忍んで奴隷強引な売り込み日本人奴隷商人ら行われたとしている。 また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心してポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本渡来する商人日本人奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人いたって強慾であって兄弟縁者朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力詭計用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込みポルトガル人哀願なり、値段の安いことで奴隷買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸い口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種暴力日本人執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して自分犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人日本人悪く扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教教義教えられるばかりかポルトガルではさながら自由人のような待遇受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助共訳雄松堂書店1969、p232-235 デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲル日本にいた従兄弟対話録として著述されており、物理的に接触不可能な両者対話歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた。遣欧使節記は虚構だとしても、豊臣政権ポルトガル二国間認識落差窺える伴天連追放令後の1589年天正17年)には日本初遊郭ともされる京都柳原遊郭豊臣秀吉によって開かれたが、遊郭女衒などによる人身売買温床となり、江戸幕府豊臣秀吉遊郭拡大して唐人屋敷への遊女出入り許可与えた丸山遊廓島原の乱後の1639年寛永16年)頃に作ったことで、それが「唐行きさん」の語源ともなっている。秀吉遊郭作ったことで、貧農家庭親権者などから女性を買い遊廓などに売る身売り仲介をする女衒が、年季奉公前借金前渡し証文作り性的サービスの提供は本人意志に関係なく強要横行した(性的奴隷)。すでに江戸時代から長崎外国人貿易業者により日本人女性妻妾売春婦として東南アジアなどに行ったとされる元禄時代(1688-1704)の頃に唐人屋敷では中国人日本人家事手伝いを雇うことは一般的だったが、日本人女性中国人帰るときについていき大半のものが騙され売春宿売られたという。日本人女性人身売買ポルトガル商人倭寇限らず19世紀から20世紀初頭かけても黄色奴隷売買」、「唐行きさん」として知られるほど活発であり、宣教師指摘した日本人同国人を性的奴隷として売る商行為近代まで続いた1596年慶長元年)、長崎着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンス (Don Pedro Martins) はキリシタンの代表を集めて奴隷貿易関係するキリシタンがいれば例外なく破門する通達している。 やがて秀吉に代わって天下人となった徳川家康によって、南蛮貿易朱印状による制限かかった朱印船貿易)。さらに鎖国踏み切ったことで、外国人商人活動江戸幕府監視下で厳密に制限することになった日本人海外渡航外国人入国禁止され日本人奴隷として輸出されることはほぼ消滅したとされる。 しかし、明治維新後、海外移住しようとした日本人年季奉公人として奴隷同然に売り払われることはあった。後に内閣総理大臣になった高橋是清も、少年時代アメリカホームステイ先で騙され年季奉公契約書サインしてしまい、売り飛ばされ経歴持っている明治5年1872年)には、横浜寄港したペルー船籍船に乗せられていた清人苦力たちを、奴隷であるとして日本政府解放して国際紛争となったマリア・ルス号事件発生している。 明治日本では女性騙して海外へ連れ出し売春させるという手口多発していた。 外務省訓令第一警視庁 北海道庁 府県 近来不良の徒各地徘徊し甘言を以て海外の事情疎き婦女誘惑し遂に種々の方法に因りて海外渡航せしめ、渡航の後は正業に就かしむることを為さず却て之を強迫して醜業を営まして、若く多少金銭貪り他人に交付するものあり。之が為めに海外に於て言ふ忍びざるの困難に陥る婦女追追増加し在外公館に於て救護勉むと雖も或は遠隔の地に在りて其所在を知るに由なく困難に陥れる婦女も亦種々の障碍の為めに其事情出訴すること能はざるもの多し依て此等誘惑渡航の途を杜絶し且つ婦女をして妄りに渡航企図せしめざる様取計ふべし 明治二十六年二月三日 外務大臣 陸奥宗光 内務大臣 伯爵井上馨 19世紀から20世紀初頭にかけて、日本売春婦中国日本韓国シンガポールインドなどのアジア各地人身売買されるネットワークがあり、当時黄色奴隷売買」として知られていた。「からゆきさん」とは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、貧困にあえぐ農村から、東アジア東南アジアシベリアロシア極東)、満州インドなどに人身売買され、中国人ヨーロッパ人東南アジア原住民などさまざまな人種男性売春婦として性的サービス提供した日本人少女女性のことである。中国での日本人売春婦経験は、日本人女性山崎朋子著書書かれている朝鮮中国の港では日本国民パスポート要求していなかったことや、「からゆきさん」で稼いだお金送金されることで日本経済貢献していることを日本政府認識していたことから、日本少女たちは容易に海外売買されていた。1919年には中国人日本製品ボイコットしたことで、からゆきさん収入なおさら頼るようになった明治日本帝国主義拡大日本人娼婦果たした役割については、学術的に検討されている。 バイカル湖東側位置するロシア極東では、1860年代以降日本人遊女商人がこの地域日本人コミュニティ大半占めていた。黒海会(玄洋社)や黒龍会のような日本国粋主義者たちは、ロシア極東満州日本人売春婦たちを「アマゾン軍」と美化して賞賛し、会員として登録した。またウラジオストクイルクーツク周辺では、日本人娼婦による一定の任務情報収集が行われていた。 ボルネオ島民、マレーシア人、中国人日本人フランス人アメリカ人イギリス人など、あらゆる人種男たちサンダカン日本人娼婦たち訪れた1872年頃から1940年頃まで、オランダ領東インド諸島売春宿多数日本人売春婦からゆきさん)が働いていた。

※この「日本人奴隷の貿易」の解説は、「奴隷貿易」の解説の一部です。
「日本人奴隷の貿易」を含む「奴隷貿易」の記事については、「奴隷貿易」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「日本人奴隷の貿易」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日本人奴隷の貿易」の関連用語

日本人奴隷の貿易のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日本人奴隷の貿易のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの奴隷貿易 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS