1587年の禁教令とは? わかりやすく解説

1587年の禁教令(バテレン追放令)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:45 UTC 版)

禁教令」の記事における「1587年の禁教令(バテレン追放令)」の解説

詳細は「バテレン追放令」を参照 織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉当初信長同様にキリスト教容認立場取っていた。しかし、九州平定後の1587年7月天正15年6月19日)にキリスト教宣教制限表明する。これは宣教師バテレン)の国外退去求めるものであったが、布教関係しない外国人商人)の出入り自由なままであり、また(強制性を伴わない限りにおいて)個人キリスト教信仰すること自体許されていた。大名キリスト教への改宗についても秀吉許可必要だったという点を除けば可能であったが、実際に政治的圧力によって既にキリシタン大名であった黒田孝高棄教したり、高山右近信仰のために地位捨てということもあった。一方で小西行長有馬晴信のようにキリスト教徒のままでいた者もいた。 また退去宣告され宣教師たち抗議を行うなどして、南蛮貿易重く見た秀吉以後黙認する形を取っている。結果として追放令以後宣教師達は(制限付きだが)活動することはできた。むしろ、この後関ヶ原の戦い前後まで毎年1万人余が新たに洗礼受けていたなど、キリスト教広がりは活発であった秀吉禁教令発令した目的には諸説あり、「外交権貿易自身集中させ国家としての統制を図るため」「@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}九州日本人奴隷売買が行われていると知り、それを禁止させるため[要検証ノート]」「キリスト教徒による神社仏閣への迫害[要検証ノート]」などがある。ヨーロッパ日本植民地化もくろんでいて、キリスト教はその尖兵の役を果たし、その意図に気づいたため、秀吉キリシタン禁圧乗り出した、との説明があるが、この説には無理があり、この時期日本盛んに来航していたポルトガルスペインは実は国力乏しく日本のように抵抗力のある国を植民地化するなど、とても不可能であるという指摘がある。 これらの発令原因とされる諸説日本提案されているもので、ポルトガルイエズス会現存しているにも関わらず日本人による一方的な批判によって構成されている。「神社仏閣への迫害」説については、仏教徒領主十字架を倒す等の宗教施設破壊行為行いキリスト教徒に対して仏教強制改宗するように命じたり、1563年十一月七日頃には横瀬浦港にある修道院焼き討ちをうけ、次いですぐにキリシタン農民たちの家が焼かれる等、双方信者間での対立関係激化したが、イエズス会責任者であるヴァリニャーノ寺社仏閣破壊禁じていた。 「仏教と暴力」も参照 奴隷人身売買原因とする説については、1537年発令され教皇勅書スブリミス・デウス異教徒奴隷とする事を禁じイエズス会日本人奴隷として売買することを禁止するようにポルトガル呼びかけていたこと、ポルトガル国王セバスティアン1世大規模になった奴隷交易カトリック教会への改宗悪影響を及ぼすことを懸念して1571年日本人奴隷交易中止命令したことについて秀吉知ってたかどうかについては不明である点には留意が必要である。 伴天連追放令バテレン追放令)後の1589年天正17年)には日本初遊郭ともされる京都柳原遊郭豊臣秀吉によって開かれたが、秀吉許可した遊郭女衒などによる人身売買温床となり、島原の乱終わった1639年以降設置され丸山遊廓遊女による唐人屋敷中国人男性への性的サービス提供は、日本人女性誘拐され海外売られることもあった「からゆきさん」の語源となっていった。 デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本の文化宗教道徳的退廃に対して批判が行われている。 日本人には慾心と金銭執着はなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れかぶせているのを、ポルトガル人ヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助共訳雄松堂書店1969、p232-235 デ・サンデ天正遣欧使節記ポルトガル国王による奴隷売買禁止勅令後も、人目を忍んで奴隷強引な売り込み日本人奴隷商人ら行われたとしている。 また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心してポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本渡来する商人日本人奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人いたって強慾であって兄弟縁者朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力詭計用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込みポルトガル人哀願なり、値段の安いことで奴隷買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸い口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種暴力日本人執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して自分犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人日本人悪く扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教教義教えられるばかりかポルトガルではさながら自由人のような待遇受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助共訳雄松堂書店1969、p232-235 デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲル日本にいた従兄弟対話録として著述されており、物理的に接触不可能な両者対話歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた。遣欧使節記は虚構だとしても、豊臣政権ポルトガル二国間認識落差伺える。日本人女性人身売買ポルトガル商人倭寇限らず19世紀から20世紀初頭かけても黄色奴隷売買」、「唐行きさん」として知られるほど活発であり、宣教師批判した日本人同国人を性的奴隷として売る商行為近代まで続いた。 「からゆきさん」および「遊郭」も参照 バテレン追放令日本最初国策としてのキリスト教への制限ではあるが、キリスト教やその信者への弾圧目的ではなく[要出典]、また形式的なものであったことに注意が必要である。 追放令命じた当の秀吉勅令無視しイエズス会宣教師通訳ポルトガル商人との貿易仲介役として重用していた。1590年ガスパール・コエリョ対象的に秀吉信任得られアレッサンドロ・ヴァリニャーノ2度目来日許されたが、秀吉が自らの追放令反してロザリオポルトガル服を着用し聚楽第黄金ホールぶらついていたと記述している。1591年インド総督大使としてヴァリニャーノ提出され書簡西笑承兌秀吉のために起草)によると、三教神道儒教仏教)に見られる東アジア普遍性ヨーロッパ概念特殊性比較しながらキリスト教教義断罪した。 秀吉ポルトガルとの貿易関係中断させることを恐れて勅令施行せず、1590年代にはキリスト教復権させるようになった勅令のとおり宣教師強制的に追放することができず、長崎ではイエズス会の力が継続し豊臣秀吉時折宣教師支援した

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