1582年の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:46 UTC 版)
「十人委員会 (ヴェネツィア共和国)」の記事における「1582年の改革」の解説
1582年の昇天日、リード・ディ・ヴェネツィアで数人の若い貴族と"Bravi"の間で乱闘騒ぎが発生する。この事件を受けた十人委員会は、この貴族たちが外国人の服装をしていたことや火器を携行していたことを理由に彼らを処罰する。しかし、処罰された貴族たちはこの決定に反発し、十人委員会を批判。これをきっかけに高まった委員会に対する不満は10月11日、次期十人委員会が提示したゾンタ三名の人事案が大評議会で棄却されるという形で表面化する。ここから、十人委員会の権限縮小を巡る混乱が始まることとなる(詳細は「職掌」の項を参照)。機能停止に陥っている委員会を正常化する為改めて提示されたゾンタの人事案が大評議会で全員却下されるなど、十人委員会への反発は強力であった。この改革は老人派の拠点となっていた十人委員会の権限を制限し、政府内での青年派の優位を確立するためのものであったと言われる。
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