1582-1833: 江戸隠密の忍士(にんし)
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江戸忍士(えどにんし)の定義 江戸忍士とは、江戸徳川幕府の諜報活動に携わった目付と隠密、そして外交使節として対外的に情報収集を行った幕臣たちを指す。 1582年、柴田周防と永持徳蔵、徳川家の家臣となる。(譜代伊賀者) 1584年、永持徳蔵、松ヶ島城の戦いで討死。(徳川の同盟者である織田の援軍として服部半蔵の指揮下、参戦。) 1590年以降、柴田周防と永持重太夫は広敷伊賀者して大奥警護及び隠密活動に従事。 1615年、柴田周防、大阪夏の陣で討死。(大阪城内外で諜報活動に従事。) 1681年、柴田崎右衛門、表御臺所人となり、以後4代1802年まで世襲。 1717年、8代将軍、徳川吉宗「御庭番」を導入。紀伊徳川の忍士が広敷伊賀者に加わった。 婚姻により御庭番が柴田・永持の一族に加わるようになった。 1794年、幕府は学門吟味に基づく実力主義制度を導入し、能力による登用を開始下級武士である忍士も勉学に励んだ。 1802年、11代将軍下、柴田甚四郎が幕府の学問所勤務となる。林大学頭からから、服部伊賀守組より石川左近將監組への移籍を告げられる。 1828年、柴田順蔵、学問吟味の後、長谷井五右衛門組に所属となり、目付となる。1832年、西の丸修復御用役となる。
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