都の南蛮寺とは? わかりやすく解説

都の南蛮寺(1576年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/27 08:04 UTC 版)

南蛮寺」の記事における「都の南蛮寺(1576年)」の解説

都の南蛮寺建設経緯は、ルイス・フロイス1577年9月19日付で臼杵から発信した書簡詳述されている。 イエズス会以前から京に建てていた教会堂老朽化したため、1575年宣教師たち協議結果再建決定した当初仏教廃寺建材流用することが意図されたが、価格面で折り合いがつかず、新たに建てることとなったオルガンティノ指揮取った教会堂建設当たっては、高山図書(ずしょ、洗礼名ダリオ)をはじめとする畿内キリシタン有力者協力寄進寄せられ寄進イエズス会出費あわせた総工費は約3,000クルザード達し当時日本建てられ教会堂でも最大級規模のものとなった。 都の南蛮寺の正式名は「被昇天の聖母教会」であり、献堂ミサ会堂落成先立つ1576年8月15日聖母被昇天の祝日)に行われた教会堂所在地中京区姥柳町蛸薬師通室町西入付近推定されるその後1587年豊臣秀吉によるバテレン追放令後に破壊された。 この教会堂は、狩野宗秀筆の扇面洛中洛外図六十一面中「都の南蛮寺図」によって、建物特定した絵画資料が残る唯一の例である。同図から以下のことが推測できる木造瓦葺3層楼閣風の建物である。 屋根最上層が入母屋造1,2層は寄棟造2層周囲には見晴らし用の廊下手すり配されている。 同時期の南蛮屏風描写では屋根の上に十字架思しきものが描きこまれるが、この扇面図では省略されている。 1層細部内部については扇面図からは不明だが、上記フロイス書簡には以下のような記事見られるキリシタン身分ある女性が畳100畳を寄進したこと。 京の職人水準の高さへの言及。 「イタリア人オルガンティーノ師の建築上の工夫」への言及。 以上のことから、日本人大工・職の手による和風基本しながらヨーロッパ特にイタリア建築様式キリスト教関連するモチーフ加味されたものと推測される

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