都の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 05:54 UTC 版)
こうした状況により、江東区からの要望を受けて都は全ての特別区に清掃工場の建設を決め、1956年(昭和31年)に「清掃工場建設10ヵ年計画」を策定した。東京都はこれに従って建設用地などの選定を進め、大田区・世田谷区・練馬区・板橋区などで新しく清掃工場が建設されることになった。 このうち、杉並区における建設案は環状八号線沿いに清掃工場を設ける1939年(昭和14年)の内務省告示をベースとしており、1966年(昭和41年)に東京都は清掃工場建設予定地として高井戸地区を選定した。しかし高井戸地区の住民は「地域選定理由が不透明で事前に地域住民に対する協議がなかった」などと主張して反発し、杉並区の清掃工場建設計画は中断してしまった。これに対し東京都は、1968年(昭和43年)に土地収用法による強制収用手続を開始し、1971年(昭和46年)5月には審議が終了して、東京都収用委員会の採決を待つ段階に入っていた。 一方、江東区は東京のゴミの最終処分場であり、1957年(昭和32年)の夢の島(14号埋立地)の建設に際して、東京都はゴミによる公害を防ぐことを公約して江東区の建設許可を得たが、これは十分に遵守されていなかった。このため江東区でも1964年(昭和39年)の新夢の島(15号埋立地。現在の若洲)建設にあたって反対運動が起き、東京都は1970年(昭和45年)までに埋め立てを終了して以後は全量を焼却に転換することを約束したが、杉並区の清掃工場の建設停滞のためこの約束も果たされず、1973年(昭和48年)まで埋め立てが延長された。
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