反説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/05 11:56 UTC 版)
「護佐丸・阿麻和利の乱」の記事における「反説」の解説
三山時代から琉球に征服を受けるまでの間、喜界島は琉球の勝連按司の勢力、連合下にあったとされる(「喜界町誌」)。護佐丸や阿麻和利を巡る争乱は、首里中山の尚氏勢力と、勝連・喜界島連合勢力との軍事衝突が本質にあったとする。 1422年の護佐丸の読谷山への移封、座喜味城の築城には、読谷山の交易勢力(当時、琉球・南蛮貿易が活発でありその根拠地であった)と奄美大島笠利、喜界島との関わりがあり、築城の人夫は笠利や喜界島から徴発された。護佐丸は中北山の後裔であり、1416年には滅ぼされた北山の影響範囲にあった、奄美の各島との繋がりがあったと考えられる。1430年、護佐丸が中城城に移封されると、1441年に首里軍による奄美大島への侵攻が始まった。1458年にこの乱が起きて護佐丸、阿麻和利ともに誅された。1466年、勝連勢力を下した尚徳王は間もなく喜界島征服に自ら乗り出している。この事から、中山は後北山を滅ぼしたがその遺された権益は護佐丸が握り、臣下に置いていたとは雖も完全に掌握はしていなかった事を示唆する。護佐丸や阿麻和利の勢力を排斥する事により中山が奄美群島の権益を完全に掌握したとも言える。 正史では護佐丸が忠臣、阿麻和利が悪人とされているが、『おもろさうし』には阿麻和利を英雄として讃えるおもろが収録されており、伊波普猷は通説に疑問を呈している。 なお異説として、勝連城に大きな戦乱の痕跡が無いことから阿麻和利は波照間島に配流され隠遁、城は無血開城したと言う説がある。
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