奄美大島島司とは? わかりやすく解説

奄美大島島司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 00:21 UTC 版)

笹森儀助」の記事における「奄美大島島司」の解説

前出沖縄行において笹森は、帰路途中で与論島沖永良部島徳之島奄美大島にも立ち寄った。ここでは、砂糖黒糖の事)の売買鹿児島商人独占しており、島民困窮あえいでいることなどが記録されている。1894年明治27年8月、この経験買われ笹森奄美大島島司就任する島司としては、糖業の振興と、島民持っていた負債償却多く力を注いだが、業績の中で「最も快挙とすべき」と評されているのは、トカラ列島(これは当時大島島庁の管轄にあった)と台湾視察である。 まずトカラ列島視察であるが、これは1895年明治28年)に行なわれた。視察といっても、当時トカラ列島は、島間公的な航路全くない隔絶され島々であり、これはけして安全な旅路ではなかった。視察行の途中では「笹森たちが暴風雨にあって遭難した」という噂が奄美大島流れ県知事要請軍艦海門による捜索さえ行なわれている(なおこの時、笹森たちは暴風雨遭遇してはいたが、ちょうど諏訪之瀬島滞在している最中であったため無事であった)。また、視察途中では、笹森炎暑疲労から病気倒れるというアクシデント起きたこのような苦難見舞われながらも一行は、住民実情伝存文書史跡など調査続けその結果は後に『拾島状況録』という書にまとめられた。これは、後に「今日でもトカラ群島についてのもっとも詳細な報告書で、貴重な文献」と評されている。また、諏訪之瀬島では、火山活動無人島となっていた同島を再開拓した人物である藤井富伝に出会っており、笹森は後に藤井伝記藤井富伝翁伝』を著している。これもこの視察大きな成果一つである。 一方台湾視察トカラ視察翌年1896年明治29年)に行なわれた。これは、日清戦争日本の領土となったため、奄美砂糖生産において競合起きるとみられたことに由来する。ただし、当時台湾抗日ゲリラ生蕃によって日本人襲撃される事件多く、やはりこれも安全な視察ではなかった。この台湾においては、危険を冒して生蕃地の視察行なっている。 その後1898年明治31年8月大島島司辞任

※この「奄美大島島司」の解説は、「笹森儀助」の解説の一部です。
「奄美大島島司」を含む「笹森儀助」の記事については、「笹森儀助」の概要を参照ください。

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