奄美大島島司
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前出の沖縄行において笹森は、帰路の途中で与論島・沖永良部島・徳之島・奄美大島にも立ち寄った。ここでは、砂糖(黒糖の事)の売買権を鹿児島の商人が独占しており、島民は困窮にあえいでいることなどが記録されている。1894年(明治27年)8月、この経験が買われ、笹森は奄美大島の島司に就任する。島司としては、糖業の振興と、島民が持っていた負債の償却に多く力を注いだが、業績の中で「最も快挙とすべき」と評されているのは、トカラ列島(これは当時大島島庁の管轄内にあった)と台湾の視察である。 まずトカラ列島の視察であるが、これは1895年(明治28年)に行なわれた。視察といっても、当時のトカラ列島は、島間に公的な航路が全くない隔絶された島々であり、これはけして安全な旅路ではなかった。視察行の途中では「笹森たちが暴風雨にあって遭難した」という噂が奄美大島で流れ、県知事の要請で軍艦海門による捜索さえ行なわれている(なおこの時、笹森たちは暴風雨に遭遇してはいたが、ちょうど諏訪之瀬島に滞在している最中であったため無事であった)。また、視察の途中では、笹森が炎暑と疲労から病気で倒れるというアクシデントも起きた。このような苦難に見舞われながらも一行は、住民の実情や伝存文書・史跡などの調査を続け、その結果は後に『拾島状況録』という書にまとめられた。これは、後に「今日でもトカラ群島についてのもっとも詳細な報告書で、貴重な文献」と評されている。また、諏訪之瀬島では、火山活動で無人島となっていた同島を再開拓した人物である藤井富伝に出会っており、笹森は後に藤井の伝記『藤井富伝翁伝』を著している。これもこの視察の大きな成果の一つである。 一方、台湾の視察はトカラ視察の翌年、1896年(明治29年)に行なわれた。これは、日清戦争で日本の領土となったため、奄美と砂糖生産において競合が起きるとみられたことに由来する。ただし、当時の台湾は抗日ゲリラや生蕃によって日本人が襲撃される事件が多く、やはりこれも安全な視察ではなかった。この台湾行においては、危険を冒して生蕃地の視察も行なっている。 その後、1898年(明治31年)8月に大島島司を辞任。
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