荊州防衛戦
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208年、荊州の南郡攻防戦で曹仁は行征南将軍として江陵を守り、孫権軍の都督周瑜と戦った。周瑜が数万の兵を率いて来襲すると、曹仁は部将の牛金に300の兵を与え、周瑜軍の先鋒の6000騎の軍勢と戦わせるが、牛金は包囲された。これを見た長吏の陳矯らは青ざめたが、曹仁は激怒し、陳矯の制止を振り切って直属の勇士数十騎を引き連れ出城した。堀を渡ってそのまま敵陣に突入し、果敢に牛金を救助した後、取り残された兵がいたので再び敵陣に突入して救出した。敵軍は後退し、陳矯らは曹仁の勇敢さを「将軍は真に天人也」と称賛し、三軍は心服した。曹操も曹仁の功績を評価し、安平亭侯に国替えした。 戦いは1年余り続き(「呉主伝」)、曹仁は周瑜に傷を負わせるなど善戦したが、結局は周瑜らに敗れ江陵を失った(「周瑜伝」)。江陵の北道を関羽が絶ち切っていたが、汝南から駆け付けた李通が関羽を攻撃し、自ら包囲に突入して曹仁を救出した(「李通伝」)。 211年3月、馬超が反乱を起こすと、曹操は曹仁を行安西将軍に任命して防御軍の司令官とし、自身が到着するまで潼関を守備させた。7月に曹操が布陣し、9月には馬超を渭南で破った(潼関の戦い)。 河間で蘇伯(中国語版)と田銀(中国語版)が反乱を起こすと、曹仁は行驍騎将軍に任命され、七軍の司令官としてその追討にあたった。その後、再び行征南将軍となり、仮節として樊城に駐屯し、荊州を鎮守した。 218年10月、南陽太守東里袞(中国語版)の過酷な軍務が原因で、宛の豪族の侯音・衛開(中国語版)らが謀反を起こし、関羽と連合して近県を略奪した。曹仁は龐徳ら諸軍の指揮を執ってこれを討伐し、放逐された東里袞と合流した。翌219年正月、宛城を陥落させて侯音らを処刑し、樊城に帰還した。正式に征南将軍に任命された。 関羽との荊州争奪戦では、連日の悪天豪雨によって漢水が氾濫し、樊城の外に駐屯していた龐徳は水没して関羽に斬られた。援軍の于禁ら七軍も水没し、関羽に降伏した。関羽は船を並べて水没した樊城を包囲し、曹仁の手元には数千の人馬しか残っていなかったが、満寵と共に徐晃の援軍到達まで軍規を徹底し、兵を鼓舞してよく守り、その猛攻を防ぎ切った。徐晃が外部から関羽を攻撃すると、曹仁も城から出て関羽を攻撃し、関羽を撤退させた(樊城の戦い)。
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