荊州防衛戦とは? わかりやすく解説

荊州防衛戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 14:44 UTC 版)

曹仁」の記事における「荊州防衛戦」の解説

208年荊州南郡攻防戦曹仁は行征南将軍として江陵守り孫権軍都督周瑜戦った周瑜数万の兵を率いて来襲すると、曹仁部将牛金300の兵を与え周瑜軍の先鋒6000騎の軍勢戦わせるが、牛金包囲された。これを見た長吏陳矯らは青ざめたが、曹仁激怒し陳矯制止振り切って直属勇士数十騎を引き連れ出城した。堀を渡ってそのまま敵陣突入し果敢に牛金救助した後、取り残された兵がいたので再び敵陣突入して救出した敵軍後退し陳矯らは曹仁勇敢さを「将軍真に天人也」と称賛し三軍心服した。曹操曹仁功績評価し安平亭侯に国替えした。 戦い1年余り続き(「呉主伝」)、曹仁周瑜傷を負わせるなど善戦したが、結局は周瑜らに敗れ江陵失った(「周瑜伝」)。江陵北道関羽絶ち切っていたが、汝南から駆け付けた李通関羽攻撃し、自ら包囲突入して曹仁救出した(「李通伝」)。 211年3月馬超反乱を起こすと、曹操曹仁を行安西将軍任命して防御軍の司令官とし、自身到着するまで潼関守備させた。7月曹操布陣し9月には馬超渭南破った潼関の戦い)。 河間伯(中国語版)と田銀(中国語版)が反乱を起こすと、曹仁は行驍騎将軍に任命され、七軍の司令官としてその追討あたったその後、再び行征南将軍となり、仮節として樊城駐屯し荊州鎮守した。 218年10月南陽太守東里袞中国語版)の過酷な軍務原因で、宛の豪族侯音・衛開(中国語版)らが謀反起こし関羽連合して近県略奪した曹仁龐徳諸軍指揮を執ってこれを討伐し、放逐され東里袞合流した。翌219年正月宛城陥落させて侯音らを処刑し樊城帰還した正式に征南将軍任命された。 関羽との荊州争奪戦では、連日悪天豪雨によって漢水氾濫し樊城の外に駐屯していた龐徳水没して関羽に斬られた。援軍于禁ら七軍も水没し関羽降伏した関羽は船を並べて水没した樊城包囲し曹仁の手元に数千人馬しか残っていなかったが、満寵と共に徐晃援軍到達まで軍規徹底し、兵を鼓舞してよく守り、その猛攻防ぎ切った徐晃外部から関羽攻撃すると、曹仁も城から出て関羽攻撃し関羽撤退させた(樊城の戦い)。

※この「荊州防衛戦」の解説は、「曹仁」の解説の一部です。
「荊州防衛戦」を含む「曹仁」の記事については、「曹仁」の概要を参照ください。

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